惑星ソラリス
「惑星ソラリス(СОЛЯРИС)」(1972 ソ連 アンドレイ・タルコフスキー監督)
体調がよかったので随分前に買ったまま放置していたこんなものをひさしぶりに観た。うーむ、エロい。タルぴょんの画はなぜかくもエロいのだろう。俺は多分タルコ信者ではないし、その証拠に「ストーカー」と「惑星ソラリス」しか観たことないわけだが、タルぴょんのこの二大傑作SFホラーをおおっぴらに褒めるとそっち系の人だと思われるので悪口も言っておくと、もちろん体調が悪ければ完璧な睡眠導入剤。あまりにもタルい展開に大半の人が「辛気くさい」と投げ出すのは必定だ。しかし。こみあげる欠伸と思わず早送りしたくなる衝動を抑えつつそこに描かれているテーマの余りの異様さに気づいたとき俺はタルコの虜になっていた。思念の実体化というレムの提示した重く壮大なアイデアに、その訥々としたモノローグとうんうん唸り続けるノイズのようなBGMが重なり、光と影の戯れ、静と動の落差が描かれるとき、いやもっと単純に画面の端をちょろりと何かが動くだけで生まれるこの強烈な吸引力は何なのかというと、せいぜいキューブリックの映像にひきつけられる理由と同じものかもしれないが、要はそこにある種のエロさを認めざるを得ないのだ。70年代初頭の東京の首都高速を近未来の光景と豪語するタルぴょん。宇宙ステーションと称してガラクタの散らかった工場をさらりと描き出してみせるタルぴょん。宇宙そのものを明示する描写はないにもかかわらず、異常なテンションとノイズのみの圧倒的な説得力でそこに宇宙を現前せしめるタルぴょん。「2001年」と違って視覚的な効果が排除されているにもかかわらず、観ているものを狂わせる幻覚剤のような映像は魂の奥底をえぐるような哀しみに満ちており、希望と郷愁のパラドックスを静かに問いかけてくる。この映画そのものがソラリスが見せた虚像ではなかろうかという錯覚すら覚えるが、認識とは人間の脳が写し撮っている幻像に過ぎないという事実に思いを馳せれば、前編と後編をディスク2枚に分断して収録した点や「宇宙SFの頂点」というIVCのオシャレなキャッチコピーを差し引いてもなお、この認識と存在の無限地獄を描ききった本作はまさに神の領域に足を踏み入れていると言っても過言ではない。だとすればタルコフスキーが作り上げたこの巨大な妄想発生装置と決して同次元ではなく、一般向けの(あえて通俗的とは言わない)哲学エンタテインメントに仕上げたソダーバーグの功績はもっと評価されてもいいはずだと思うのである(欠伸