まちがっているのは人間か食い物か
乞食が叫んだ。「俺は世界のバランスをとってやっているんだ」
テレビのクイズ番組とかで、10万円のワインと安ワインを飲み比べたり、高級牛肉とスーパーで売っている牛肉を食べ比べて、どっちがどっちか同定するという実験をやっていることがある。見た目はさほど変わらない。で、当然ながら、被験者の判断基準はまちまちである。うまいと思った方、自分の嗜好と逆の方、なんとなく、などなど。結果は真っ二つに割れたり、著しく偏ったりする。こうして当たったの外れたのと一喜一憂するわけだが、困るのは意外にも少数派が正解だった場合。
「えーっ!」どよめく会場。司会者の得意そうなまぬけ面。我々の認識は本当に正しいのか、というあたりまえの疑問だけ残して煮え切らないまま番組は終わる。
なんじゃこりゃ。実験方法のいいかげんさもさることながら、意図がさっぱりわからない。判定する人間の味覚に問題があったのか、その食い物がそもそもおかしいのか。おかしいとすれば何がおかしいのか。仮に正解したとして、それは果たして誇るべきことなのか、恥ずべきことなのか、どちらでもないのか。世の中のアンケートとか称するものの結果は大体こんな程度である。いいかげんどうにかならんのか。だから何なんだ、と言いたくなる。
すこし見方を変えれば価値観など容易に逆転するものだが、そんなことはあたりまえである。高級牛肉もしょせん牛の死体の脂肪のカタマリ。かび臭い年代ものワインより安ワインの方が美味いのは常識。刺身も殺したてほやほやのやつよりは多少腐ったぐらいの方がうまいといつかどこかで聞いたような気がする(てきとう)。平安時代はブスが大モテだったし、ガッツ石松は本当は頭がいい。世の中の思い込みが正しいとは限らず、統計や数字にすら(意図的な操作も含めて)詐術のまぎれこむ余地があるのは自明の話。問題は、このような価値観の倒立が生じるとき新たな認識の地平が開くのかというとそうでもなかったりすることだ。
ここまでうっかり読んでしまった人は、だから何なんだ、と思うかもしれない。要するに正解なんてものはないんだ、とかおざなりな結論でお茶を濁すのが筋だろうが、もちろんそんなことはしない。世の中そんなに甘くない(笑)。