気狂いピエロ
「気狂いピエロ(PIERROT LE FOU)」(1965 仏・伊 ジャン=リュック・ゴダール監督)
「見つけた」「何を?」「永遠を」
何年か前、テレビの深夜放送で「ピエロ・ル・フ」という映画をやっていた。何気なく観たところ、サルっぽい俳優がブツブツ独り言をつぶやいているだけのよくわからない映画だった。粘着的で過剰なセリフ、意味不明の気取った引用、無駄な詩句の羅列。インテリ気取りのなんて厭味な映画だと思いつつも、どういうわけか魅了され、ラストシーンでは不思議な感銘を受けた。ここに描かれているのは、どうしようもなくアホな男女の逃避行だ。そして破滅の美学。それだけである。しかし「俺たちに明日はない」の最後のようにザマアミロ!とは思わなかった。脈絡のない映像コラージュと、不毛なレトリックの洪水なかに、どうしようもない人間の未練がましさが、ダメ人間のカリカチュアが浮かび上がる。あとでこの映画の正式な邦題が「きちがいぴえろ」だと知って納得した。ゴダール作品のなかではおもしろい方だということも判った。それからゴダールという監督がどういうやつであるかも。ゴダールは偉大な詐欺師であった。この頭のいかれたヒネクレ親爺は、映画的文脈の中に半(反)笑いのウソを埋め込み、知らん顔をしている。どうでもいいことを延々とサルに語らせ、わざとらしく「つまらなさ」を演出する。映画的快楽を真っ向からコケにするかのように、物語にのめりこもうとする観客を振り回し、ぬけぬけとはぐらかしては、決して尻尾をつかませない。要するに、ただのゴミであっても一向にさしつかえない作品ばかり撮っている。こんな「つまらなさ」を絶対条件とする反映画の映画に快楽を憶えるのは、どうしようもなくいやらしい勘違い野郎だけ。サルが逃げまくって最後に死ぬ映画に感動するなんてどうかしているのだ。間違っても人前で褒めてはいけない、と俺は心に誓った。
余談だが、ゴダール作品の日本語吹き替え版っておそらくないと思う。フランス語の語感のきしょくわるさがあってこそ成立している。従ってゴダール作品を観るときは、どうしてもセリフを「読む」格好になる。そして意味を理解しようとしてしまう。そして最後に、それがいかに無駄な行為であったかを悟る。これがゴダール作品の醍醐味だったりもする。