水の中の八月
あれから生きていられたのが奇蹟なのよ。だから、見るものすべて、聞くものすべて、感じるものすべてが懐かしくて、いとおしくて、すごく素敵だったのね。もう無理して私の心を、体の中に閉じ込めちゃいけないわ。私はもう行かなくちゃ。私が生き返った役目を果たさなきゃ。
「水の中の八月(August in the Water)」(1995 日 石井聰亙監督)117分
制服のままプールに飛び込む小嶺麗奈。水をかきわける限りなくスローモーションに近い動き。冒頭のこのシーンが本作のすべてを物語っている。美しいのだ。水中映像というのはそれ自体神秘的だが、びしょ濡れの小嶺麗奈の凛々しさはフォトジェニーそのもの。現世と異次元の境界に立つ少女といった風情で、存在するだけで画面が引き締まる。高飛び込みの選手という設定も秀逸。飛び込みって瞬間と静謐の美学だなあと思う。シンクロナイズドスイミングとは根本的に違う。好きな人には悪いが「ウォーターボーイズ」なんて汚い映像の連続で反吐が出そうだった。消えていく水、路上で倒れていく人々、終末的な空気、風物をとらえた映像が尋常でなく美しい作品だし、現代の巫女を体現する小嶺麗奈と夢幻的な映像の組み合わせは比類ないものだと思う。もうストーリー展開なんてなくてもいいのではないかと思う。実際、ストーリー的には確かに弱い。臨死体験をきっかけに精神世界へ逝ってしまった少女。対立する集団を仲介する巫女的な少女というのはおよそ類型的なもので、そこに宇宙的な意志の存在やら超古代文明やらを中途半端にからめたら荒唐無稽なSFファンタジーにしかならない。説明してしまうと台なしになるし、そもそも説明できるはずもない。ロマンチックな要素をそろえすぎ、似非スピリチュアルというより安っぽいジュヴナイル小説になった印象がある。あの泉たんの日記は相当恥ずかしい。で、最後にまたしてもこの物語がジジイの懐古談であったことが明らかとなるのだが、浦島○郎的な時制の飛躍は必要だったのか。その設定でしか表現できない切なさというのも解るが、さすがにあのラストはくどいと思った。「ユメノ銀河」といい、石井聰亙は幽玄の美を完璧なまでにとらえる術を知りながら、詰めがまことに甘い。惜しいとしか言いようがない。私が言っても詮無いのだが、自分ならあれを削ってあのシーンで止めるのになあと思う。《謎》は静かに、すみやかに閉じるべし。それが「飛び込みの美学」にふさわしい。★★