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さかしま

bitch692006-04-13

『さかしま(À rebours)』(1884 仏 J.K.ユイスマンス著/澁澤龍彦訳)
ブニュエルの「小間使の日記」で引用された一節を探すため気まぐれに読みはじめたのだが、読書が苦痛な自分にしては珍しくなんとか読み終わった。訳者の趣味を反映した難字の多用に加え、読点で区切られた長い修飾句の重畳ゆえ文意は一読して捉えがたく、たいへん読みづらい小説ではあったが、評論みたいな内容が却って新鮮で飽きなかったように思う。タイトル通りの倒錯生活を送る華麗なるひきこもりフロルッサス・デ・ゼッサントの思索と寝言の軌跡を粘着的な文体で綴った本書は、「デカダンスの聖書」とも評されるように一種の頽廃的な隠者文学と言える。ポーやボードレールマラルメに膨大な賛辞を捧げる一方、凡俗の精神に対するデ・ゼッサントの嫌悪と軽蔑の念には凄まじいものがあり、実際デ・ゼッサントが人類を批評する際の冷淡で辛辣な調子は、イロニッシュを通り越して剥き出しの底意地の悪さ、純粋の侮蔑から発する呪いそのものと言ってよい。こうしてデ・ゼッサントは俗世間にあからさまに背を向けたまま、高台に築いた無為と倒錯の根城にひたすら閉じこもる。デ・ゼッサントがそこで何をしているのかと言うと、聞いたこともないようなマイナーな絵画や文芸作品、教会音楽やカトリック暗黒史にまつわる印象批評を繰り広げたり、植物や鉱物に関する博識を披瀝するかと思えば、視覚・嗅覚・味覚・触覚(なぜか音に関する記述は少ない)への偏執狂的な考察を脈絡なしに連ねたりして、要するにおのれの嗜好の総合目録を作成しているといった按配。ギュスターヴ・モローの『まぼろし』、ヤン・ロイケンの『宗教的迫害』など作中に転載されている数点の絵画に対する批評を除けば、病的に緻密でありながら具体性を欠いたまわりくどい形容詞や固有名詞の羅列が一体なにを指示しているのか、一般人にはおよそ想像することすら困難であり、しばしば読み飛ばす以外になかったりする。一方、人工楽園などと形容されるその世界観に似つかわしく、身辺を擬似現実で埋め尽くし軽やかにひきこもるためのテクニックも紹介されているのだが、晦渋な文体とは裏腹に内容が意外と幼児的で笑えたりもする。たとえば床を歩く亀と絨毯の色彩を調和させたいがために亀の甲羅を豪奢な宝石類で飾ってストレス死させたり、さらにたとえばデ・ゼッサントは旅行なるものを嫌悪していて、自宅にいながらの空想旅行を実演するのだが、とある海岸に家にいながらたどり着くためには、
(1)製鋼所からわざわざ拾ってきた、潮の香りが残っている錨索や細紐を箱から取り出す。
(2)で、この匂いを吸い込む。
(3)さらに、行きたいと思う海岸の観光案内を夢中になって読む。
(4)すると海岸の幻影は否定しがたいほど圧倒的なものになるのだ、と主張する(爆)。
かと思えばいきなり人恋しくなり、快適な我が家を後にしてまで切望したロンドンを目前にしながら、幻滅するのは目に見えていることに気づき、「ああ、考えただけでもぞっとする!ご苦労さまなことだ!」とさっさと引き返したり、本棚を整理し終わって「やれやれ!こうなると、再読に堪える本というのは、じつに微々たるものだな」とひとり呟く。トーマス・マンが『幻滅』のなかで乞食に語らせた倦怠と同列のじつに堂々たる偏屈ぶりというべきで、同じ論理に従えば、あらゆる土地はあらかじめ踏破され、あらゆる書物もまたあらかじめ渉猟されつくしていることになり、極論すれば人生すらあらかじめ完了しているのであって、デ・ゼッサントの前では、事物の本末はみな鮮やかに転倒しているのだ。こんな調子で、デ・ゼッサントは低俗な現実をことごとく拒絶し嘲笑するため、ひたすら自分の見識をひけらかしたり、コレクションをこねくりまわしたり、どうでもいいひねくれた考察を加え、オマエラたいしたことねえな(笑)と悪態をついて満足する。ここに至ってデ・ゼッサントの精神構造が、我々もよく知っている御仁のそれと酷似していることに気づくのだが、要するに現代のヲタと呼ばれる人種がブログや掲示板でやっていることと大差ないわけで、デ・ゼッサントがほかならぬ我々自身の似姿であることに思いを致せば、もはや笑いごとでは済まされぬという、まことに絶望的な笑いがこみあげてくる。狭い室内を埋め尽くさんばかりの本やレコード、DVD、その他ヲタアイテムに囲まれ恍惚と微笑む可愛らしいヲタの姿が私にはまざまざと想像できるのだが、たとえ本人は真剣に何かを究めているつもりでも、傍目には愚鈍や駄々っ子としか映らぬわけで、じつに哀切かつ滑稽きわまる光景というべきだろう。とはいえ十九世紀末の病んだ幻視者とその神経症的世界にうっかり共感したところで、デ・ゼッサントの行動原理はひたすら自己の欲求の充足にある。というよりそもそも他者が眼中にないので、仲間だと思って近づいてきた連中すらも平気で蹂躙しかねないという、まさにヲタの鑑のような存在である(笑)。かくて狷介不羈、頑迷固陋を旨とするデ・ゼッサントの精神は、当然のように退嬰の極みに達し、やがて心身ともに救いがたいレベルまで廃人化していくのだが、隙あらばとっとと引退して山奥にひきこもるのが夢の私がもしこんなものを人格形成期に読んでいたら、それこそ救いようのない人間のクズになっていたのは想像に難くなく(いまでも充分クズとの評価はさておき)、デ・ゼッサントの論理から言っても本書は、装丁でも眺めながら読んだつもりになるのが一番正しい鑑賞法と言えるでしょう。★1/2