尼僧の背徳
「尼僧の背徳(LA VERA STORIA DELLA MONACA DI MONZA)」(1980 伊 ステファン・オブロースキー監督)
イマイチ 泉シゲピヨ
新緑の息吹ととともに迎えた新生活にもナニヤラ幻滅の予感が漂い始める今日この頃、その予感はヤガテ明瞭な確信へと変わり皆様のココロを暗雲のごとく覆うことと拝察致しますが、ミナサマ如何お過ごしでしょうか。シゲピヨで御座ゐます。此のたび徳○島映画祭名誉審査員と云う大役を仰せつかり、また百四十歳にもなって改名まで果たしマシタ上は、心機一転、括約筋をひきしめなおし精進致す所存で御座ゐます。サテ、恥ずかしながら小生、年甲斐もなく最近《尼僧エロス》なるジャンルに目覚めましたゆゑ、レンタルビデヲショップに赴きイソイソと本作を借りて参った次第で御座ゐます。蓋し《尼僧エロス》の大半はドレモ似たような筋立てで御座ゐまして、端的に申し上げますと「修道院に入ったらヤッパリ腐っていて、いっしょに破滅しちやゐました」というだけのオハナシで御座ゐます。とは申せそれは偉大なるマンネリズムの極致であるがゆゑに、其の演出に於いては周到かつセンシチヴな配慮が要求されるので御座ゐます。まして監督・脚本が伊映画界の巨匠ヴィンセント・ドーン、クラウディオ・フラガッソの名コムビと来ますれば、期待に胸もナニモカモ膨らむのは無理も御座ゐません。で、確かに音楽は素晴らしく、尼僧ものの名に恥じぬ名曲揃いでは御座ゐました。然し乍ら、肝心の本編がノッペリマッタリいまひとつ緊張感を欠き、かの傑作「尼僧白書」に比べますと明らかにセンスも完成度も劣る作品で御座ゐました。のべつまくなしに垂れ流されるイェロス描写も抑揚を欠き、予てからワタクシが提言しております汎(パン)ティラリズムの美学はカケラも見当たりませんでした。悲しいことで御座ゐます。モットモ、所謂「崩ゑ」(使い方合っておりますでしょうか)の観点から申しますと、責任の大半は主役のヲバサンに所在するものと拝察致します。
以上で御座ゐます。
わざわざ改名までしましたのにコノ程度で、誠に恐縮に存じます。徳之島映画祭名誉審査員としてコレでよいものかどうか、われながら甚だ疑問では御座ゐますが、特に改める積もりは御座ゐません。というかオシオキはいやで茣蓙ゐます。断乎として拒否致します。★