Grand-Guignol K.K.K

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パンティラリズム序説


世界は美とエロと詩でできている。美はエロとともに拡散し、詩とともに崩壊する。(泉シゲピヨ)

美とエロと詩情の三位一体性については賢明な皆さんに改めて説明するまでもございません。しかしながら美=エロ=詩とは具体的に何かと申しますれば、これは芸術概念としてのパン(汎)ティラリズムに集約されるのでございます。私は自他ともに認めるパンティラ好きですが、私がパンティラに心を奪われるのはそこに瞬間的な美とポエジイを認めるからであり、やむにやまれぬ芸術的欲求に端を発しているからなのでございます。パンティラとは言うなればトロンプルイユ的な二重構造の意匠(たくらみ)であり、そこに仕掛けられた《罠》をめぐる快楽と申し上げても過言ではございません。たとえば屈託のない笑顔で草原を駆け回る一糸纏わぬ女子よりも、健康診断を終えた上半身ハダカの女子が無いチチを手で隠しながら保健室から小走りに出てくるという光景にこそエロースの女神は舞い降りるのであり、それは即ち詩そのものと言い換えてもさしつかえありません。両者の最大の違いは何かと申しますと、それは心理的・身体的な制約の有無でございます。即ち無いチチをあたかも存在するかのごとく隠蔽するという行為には、思春期とともに芽生えた羞恥というものが暗示されているのであり、羞恥⇔隠蔽の構造がここで云う詩、もしくは《罠》なのでございます。またたとえば、映画そのものは頗るどうでもいい「スタン・ザ・フラッシャー/露出狂とロリータ」に於いて、仰角25度の入射角で少女たちの秘密の裾野を掠め撮るキャメラがエロティシズムたりえているのはなぜか。少女たちが決してスッポンポンではないという条件と同じぐらいここで重要なのは、キャメラが見下ろすものではなく、あくまで見上げるものである、という点です。俯角によるパンティラというものが通常は物理的に成立し得ないという事実もさることながら、仰角というのは被抑圧者の視線なのですね。この被抑圧者の後ろめたさがここで云う詩であり《罠》なのであり、その心理と軌を一にする視線があってこそエロはエロとして発動するのです。このように、世界に遍在するティラリズムを総称してパンティラリズムと私は呼んでおります。わかりやすく申しますと、パンティラリズムの極意とは要するに、背中が痒いからといってそのまま掻くのではなく、ケツに手をつっこんで口から出して背中を掻くような、そんな切ない感じなのでございます。わけ和姦ないですね。