キネマの怨念装置
今朝、水たまりでぴょんぴょんはねるきちがいをみつけたので射殺したところ、元アナウンサーの御法川もんきちであることが判明し、あわてて地面に埋めた。いまのところ誰にもバレテおりません。
はてさて、フィルムという記憶の化け物、存在しない過去の忌まわしい集合体としての《映画》について思いを馳せるとき、その輝かしい不毛の軌跡がやがて諸君を破滅に導くであろうことは目に見えているにもかかわらず、諸君が《映画》について語り続けることをあきらめないのは驚くに値する事実である。諸君がインターネッツ上で愚にもつかぬタワゴトを並べて悦に入るとき、諸君を衝き動かしているものは要するに「わたくしにも感想を述べさせよ!」「読むのがめんどくさいような言説を並べさせよ!」という正体不明の情熱である。単なるひまつぶしであれば「おもろかった、つまんなかった」で済むところを、諸君がなぜそれほどまで執拗に語りたがるのかというと、人は自分が注いだ時間や労力に見合った対価を得ようとするからである。要するに映画のためにおのれが消費したエネルギーに比例して、人は執着もっと言えば怨念を深めるからなのである。すなわち諸君は映画を愛してなんぞいない。映画を呪い、同時に映画に呪われているのである。
そもそも映画とは何なのか、この漠然とした問いに諸君が一度でも真摯に向き合ったことがあるならば、その解答の困難さに直面せざるを得ないはずだ。その包括する概念はあまりにも多岐に渡るため、単純な等号論によって捉えうる事象ではなく、あえて言うならばA=AないしA=A'という自同律に終始せざるを得ない命題だからである。たとえば「ゴミ箱をあさる乞食」というのは非常に魅力的な被写体であり、それ自体に詩(原詩性)を内包するノンフィクション・ポエム、すなわち人為による加工を必要としない純粋のポエムである。その魅力的な情景に延々とカメラを回し続ければ、それだけで一篇のドキュメンタリー映画が完成する。ここにヤラセ要素を付加し、意図的に娯楽性を増幅することで生まれるのが虚構詩(Poésie de Fiction)である。たとえばタルコフスキーであれば舞台を廃墟に設定し、あちこちに水たまりをこしらえ、鉄くずやガラクタをばらまき、犬や少女といった脇役を登場させるであろう。そして詩の朗読やお経をBGMにすれば、映像そのものは作り物であるにもかかわらず、約束された意外性が立ち現れ、フィクションの詩的真実が映像に宿る。これもまたまぎれもなく映画の形のひとつである。しかしだからといってこれが映画だ、という結論には決してたどり着かないのである。はっきりしているのは、このように諸君が貧しい感性をフル稼働して何かを語ったところで、映画には毛ほどのパンチも浴びせられないという事実、映画そのものは依然として無傷のままそこに立ちはだかっているという事実だ。映画とは体験そのもの、あるいは記憶のなかでしか存在しえない幽霊のようなものであり、それを語るという行為は、言葉では遂に捉え得ないものを捉えようとする暴挙に他ならない。その不毛を知りつつなおも諸君はその不毛から逃れることができない。これこそキネマの呪いでなくてなんであろうか。
わたくしにとって映画とは罰ゲームのようなものである。観ることによってさらに怨念を増幅させる精神の泥沼に他ならない。というかわたくしは純粋な映画ファンではないし、その証拠に映画館なんか行ったこともない。もはやわたくし以外に訪れるものとてないこの無慚なブログも、要するに映画なんてクソだと言いたいがために続けているようなものだが、前述のとおり実体のない相手に殴りかかってもかすりもしないので、あらかじめその目的は頓挫している。その腹いせとして、とりあえず映画好きと称する連中の鼻持ちならない特権意識に天誅を加えてやろうという、健全かつ爽やかな理念にもとづいてこのブログは運営されております。