日曜日の恋人たち
「日曜日の恋人たち(J'AIMERAIS PAS CREVER UN DIMANCHE)」(1998 仏 ディディエ・ル・ペシュール監督)
「家の中では獣のように、みんなやりまくってる。いくつものケツが動いてるんだ。俺たちも仲間に入れてくれ!お前たちは変人だ」
(あらすじ)
死体置き場でこじきが少女を屍姦したところ死体が蘇生。息を吹き返した少女はこじきを命の恩人と思うが、こじきは迷惑がる。やがて二人はおおぜいのこじきを引き連れて旅に出るが・・・こじきとゾンビの奇妙な愛を描いたロードムービー。
(かんそう)1ねん1くみ ひろひと
究極のエロスとは如何なるものであらうか。性愛を単純に生の歓喜と規定するならば首絞めプレイによる絶頂(「キリング・ミー・ソフトリー」と云ふ映画で見た)を説明できぬのは明白であらう。そもそもエクスタシーの語源(ecstasy>ex+stare)は幽体離脱を想起させ、オルガスムの合言葉「逝く」と云ふ表現にも多分に死のメタファが刷り込まれてゐるやうに、生と死の衝動は本来的に拮抗するものではなく、寧ろ性の営為を通じてある種の連続性を帯びてゐることに気づく。エロスは連続する生と死の衝動の中間に位置し、両者の振幅を媒介する加速装置に他ならぬ。振り子のやうに相互に感応しあう生と死が最も接近するとき、両者は奇妙な相似形を帯びてくる。この生と死の癒着のもつともいやらしい形態が屍姦であり、本作はそこに再生を帰結させることによつて入滅と誕生のサイクル、生と死の円環構造を捉えやうとしたのではなからうか。朕の推理によれば即身成仏はみな勃起しながら死ぬ。入滅即菩提こそ究極の輪廻の瞬間である。この妄執はいちど自らの肛門に首を突込んで窒息すれば理解できる。あ、そう。ξ