まわり道
「不安は虚栄や恥のように扱われる。だからドイツでは孤独も暗い無表情の仮面をかぶっているんだ。仮面の孤独がマーケットや行楽地や公園や体育クラブをさまよっている。ドイツの死せる魂だ」
「まわり道(FALSCHE BEWEGUNG)」(1974 西独 ヴィム・ヴェンダース監督)
陰気なドイツ人一行の珍道中を描いたロードムービー。主人公がいきなりげんこつで窓ガラスを叩き割るつかみにまず吹いた。自己を見つめなおすためと称して放浪の旅に出発した無職の青年。どこからともなく湧いてきた乞食のような連中をお供に従え、あてのない放浪をつづける。互いの孤独や焦燥を埋めあわせるかのように寄り添い、どこにも存在しない目的地を目指す彼らの姿は、あたかも道に迷った桃太郎の一行のようだ。登場人物の言動はいちいち演劇的で不自然きわまりない。にもかかわらず、映画の沈んだトーンのなかでそれらはシュールな様相すら帯びてくる。恥ずかしい詩の朗読をはじめ、ゆうべ見たどうでもいい夢の話、孤独や死に関する哲学的なモノローグがイヤというほど聞けるので、その方面のマニアにもたまらないだろう。映画初出演のナタキン演じる聾唖の少女がいい。あどけなさを残した顔立ちと未成熟な裸身から匂いたつ仄暗いエロスが純正ロリータたらしめている。その後もカメラはダラダラ移動する乞食たちの様子を克明に追いつづけるが、やがてそのような関係もあっさり破綻を迎える。結果的に青年はもとどおり自問自答のモラトリアム生活へと戻ることになる。「自分探し」という不純な動機で始まったこの旅は、言葉にならないもやもやした焦燥感や倦怠感を痛切にはらんだままフィルムの闇のなかへ消える。まるでこの映画そのものが膨大な無駄の堆積に過ぎない、と言わんばかりに。そもそも旅に意味や目的を求めるのはいやらしい。無目的で非生産的で無味乾燥で、絶望的に不毛な行為であってこそ旅だと思う。なぜかと聞かれても困るが。
「理屈をつけてテレーズと別れて来たのはつまりは1人で気ままに生きたかったからだ。山頂で奇跡を待ったが雪嵐も何も起きなかった。1人になるとやはり淋しい。なぜ爺さんを脅したのか・・・。僕は無意味なまわり道ばかりしているようだ」
このラストのモノローグによる突き放し方などいっそすがすがしいぐらいだ。★1/2