ドッグヴィル
「ドッグヴィル(DOGVILLE)」(2003 丁 ラース・フォン・トリアー監督)177分
「ベン、やめて」
「お、おれだってこんなことしたくないんだ。誤解しないでくれ」
(あらすじ)
こじきたちが息をひそめて暮らす田舎町――《ドッグヴィル》。壁も屋根もない吹きさらしの地べたをこじきは家だと信じて暮らしています。当然ウンコをしてても外から丸見え(笑)。そこによそ者の美しくエロい娘がまぎれこんだからさあ大変。たちまち肉欲と嫉妬に駆られた田舎者たちは娘を監禁し、性奴隷として《飼育》を始めますが・・・。
(かんそう)
うさんくさいセットと台詞だらけの構成で、開始5分もしないうちに観る気がうせた。この貧乏くさい村に爆弾が落ちて"THE END"でいいんじゃないかと思いながら(だいたい当たっていたが)半分寝ていたら、後半、唐突にニコール・キッドマンの手篭めシーンが挿入される。穢れるたびに異常な輝きを放つニコール・キッドマンの爛熟した色香に興奮した。さて、この映画のヒロインのごとき過酷な境遇に対する極端な従順さはしばしば無垢や聖性の象徴と捉えられがちだが、それはむしろはかない抵抗の結果としての無抵抗、すなわち絶望や諦観ゆえの従順さに他ならない。なぜなら虐げられた者が見せる最後の一撃の強烈さをもまたわたくしどもは承知しており、それはしばしば飽和状態に達した不幸の末の悲劇的結末(カタストロフ)をもたらすからである。しかし「少女ムシェット」では最後の抵抗(らしきもの)としての自死があったのに対して、本作では神の権力の行使=愚かな人類への粛清という形で現れる。結果的にこの田舎者の村は全滅するのだが(笑)、そこには勧善懲悪ザマーミロ的な溜飲下げもなければ、どうしようもない人類への絶望的な認識というわかりやすい視点すら提供されていない。なぜならこの手の込んだ茶番劇を破壊したのはわたくしども自身であり、破壊されたのもまた他ならぬわたくしども自身だからである。このように同じ悲劇でありながら感情移入や安直なカタルシスを周到に避けている点がラース・フォン・トリアーが曲者たるゆえんだろう。ただこの監督の場合、個人的な変態趣味が混在しているから話がややこしくなるのであって、要するにニコール・キッドマンを容赦なくいたぶり倒すことへのサヂズム的快楽とその結果としての破滅によるマゾヒズム的快楽の自覚的な実践がこの映画なのだとも言える。いずれにせよこの監督が救いようのない変態であるのは疑いようがない。★
(追記)「奇跡の海」の予告編が超かっこよかったのでこんど借りる。