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ぼくの宝物絵本

ぼくの宝物絵本 (MOE BOOKS)

ぼくの宝物絵本 (MOE BOOKS)

『ぼくの宝物絵本』(2010 穂村 弘著)
"これは子供のための本なんかじゃない、と私は思った。僕のための本だ。全部集めるぞ。"

◎絵本の狂気
"みなさん。かわいゝ勉強ずきなみなさん。あなたたちは何が一等すき?あててみませうか。さあ、こうでせう?「けしごむ。ーー」みなさんがうれしさうに、おててをぱちぱちたゝくのが、きこえますよ。"
なんだかめまいがしそうな名文である。句読点の位置やダッシュ(長音)の使いかたも異常(「けしごむ。ーー」は文脈としても文章表現としても死ぬほど笑える)。このシュールなめまいの感触は、単に時代感覚のずれから生じるわけではない。古い絵本が放つ凶悪なパワーの根源は、邪気のなさ、あるいは意図せざる狂気とでもいうべきものに集約されている。あくまで自然に、何のためらいもなく書かれているからこそ、結果的になんとも言えない怖さとおかしさが導き出される。それでいて理解不能。だから狂っているのだ。以前このコラムで紹介した『ヱバナシ六月號フロク』に書かれていた「オニンギヤウ」という表現の違和感がどこから生じるのか、と考えれば、ここに引用されたひらがなまじり文の凶悪さもおのずと理解できよう。

◎絵本の中にはナンセンスと膨大な《死》がつまっている。
"やりたい放題にしてだめの小宇宙である。限りなく無意味に近い純粋さは、孤独な小宇宙だからこそ輝いてみえるのではないか。"
"ラストの「それきりもどっては来ないのだった」で鳥肌が立つ。彼女は永遠の世界に旅立ったのだ。旅立ちの衣装として選ばれた「シュミーズ」が死装束にも見えてくる。"
"この危険なテイストの源にあるものはなんだろう。私見だが、それは死に対する感受性だと思う。"

絵本の大きな魅力のひとつはその荒唐無稽さだが、いみじくも筆者がせなけいこの『ねないこだれだ』を引用して「教育的配慮の超越」と呼んでいるように、すぐれた絵本は現世的な意味を超えて、有無を言わさず彼岸の世界に足を踏み入れる。そしてすぐれた絵本は止め絵で終わる映画と同じ効果がある。絵本は止め絵の集合だが、大事なのは「つづく」ではなく完結するという点だ。あるいは冒頭に回帰し、それ自体閉じた無意味の環となる。無粋なうるさいエンドロールにもつれこんだりダラダラと続編につなぐようなまねはしない。わたくしは止め絵で終わる映画が好きだ。その瞬間にわたくしは《永遠》を感じてちびりそうになる。だから絵本は意味や束縛からの解放と同時に永遠の静止を感じさせる。凡俗の意図を超えて永遠の闇に凍結することができる。

◎究極のエロス
"絵本のなかで、泣いたり笑ったりしている子供たちに興味がもてない。生き生きとした表情をみても、ふーん、と思うだけだ。ところが、無表情な少女をみると急に気持ちが惹きつけられる。例えば、ジョン・テニエルが描いたワンダーランドのアリス。日本では宇野亜喜良の少女たちがそうだ。"
↑共感しすぎてちびりそうである。ディズニーをはじめとする「不思議の国のアリス」の映像化作品にことごとく魅力を感じず、ジョナサン・ミラーの「Alice in Wonderland」やヤン・シュワンクマイエルの「アリス」こそルイス・キャロルの正統な衣鉢を継ぐ映像作品だとわたくしは以前から主張してきたが、理由はそこにエロスを感じるからである。ひらがなとかわいらしい絵柄でおとぎ話のフリをしたシュールで凶悪な絵本の魅力を満喫してみるがいい。えほんが本来の意味においておとなのえほん(えろほん)だということが了解されよう。なお、私がここで謂うエロスとは、薄っぺらい意味のエロスではない。より高次の芸術概念としてのエロスだということを強調しておきたい。★1/2