THE CENTRAL CHURCH OF HOLY SHIT
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/violence.html?d=06yomiuri20050406i103&cat=35
時事ネタに喜んで飛びつくのは節操がないみたいなので原則扱わないことにしている、というのは大嘘である。時事ネタを扱わない主義というよりも興味がないから扱わないだけなのだが、こういうネタだけは別である。喜んで飛びつく。というか以前から言っているとおりこの駄コラムの主目的は人類への嫌がらせであり、我々のいやらしい本性を暴き出して自己嫌悪に苛まれることにあるので、その格好の素材として目的にかなっているわけだ。野村芳太郎監督も亡くなったことだし、こうした真の鬼畜ルポルタージュが明るみになっていくのは好ましいことだと思っている。さらに、あらかじめ誤解のないように言っておくと、このド腐れちんぽエロ牧師と同じぐらいいやらしいのは、毎度ながらこういう記事を喜んでセンセーショナルに書き立てるマスコミの浅はかさと犯罪者を叩いて事足れりとしているノンシャランな衆愚のぬるい精神構造である。宗教というのは所詮人間の営みであるからそこに疚しい欲望が絡まぬわけがないし、まして共同体というのは特定の意志や目的を共有し閉鎖することに意義があるのであって、その閉鎖された空間の内部でどのような行為が行なわれようともすべて真理の名のもとに正当化されてしまう。証明不能の真理を前提に独自のレトリックと屁理屈で固めた彼らの聖典がそれをさらに補強する。「自分たちは違う」と主張したい気持ちはわかりますが、誰がどのように言い訳しようとも以上は絶対的な真理である(笑)。語弊を承知でいうと、被害者に対する共感が不可欠なのと同様に、加害者に対する共感をまったく欠いた人というのもまた危険なのである。戦争などの例をもちだすまでもなく、人間やろうと思えばどこまでも残酷になりうるのであり、それに知らんぷりを決め込む態度は臭いものにフタと同じ論理になるからである。虫一匹殺さず肉のひと切れも口にしない人というのはおよそこの世に存在できないし、程度の差はあれそれぞれのレベルで行為は正当化される。極端な話、人間は他者に対する思いやりなどもとから欠いているのであって、放っておけば限りなく自己中心的になるところへなんとか社会性をつけくわえて秩序を維持しているのだ。「思いやりの心をもちましょう」とスローガンを唱えた時点ですでに思いやりの心をもっていないことを暴露しているのである。というわけで、万一あなたが金保たんと同じ立場だったとして、一瞬たりともそのような想像を働かせないほど干からびているとしたら、あなたは既に死んでいるのです。