歌を忘れたカナリヤは、柳のむちでぶちましょか
ヲタクがメガネッコモエーとわけのわからないおたけびをあげている間も世界は刻一刻と破滅に向かっているわけですが、みなさんいかがお過ごしですか。とある学説によると、人間は1日に最低108回はいやらしいことを考えるそうですね。どうやって調べたのかは知りませんが、煩悩108つという思想もここから来ているそうですよ。もっともこの説は出所が怪しいのであまり信用なさらない方がいいです。ご存知のとおり「農務・鬱・飼う」というのは古来から人間の三大煩悩と称されているわけですが、これほど言い得て妙の言葉もないと思います。人目をしのんで畑を耕すあの後ろ暗い喜び、布団のなかで齧るデパス錠の安堵感、わざと飢えさせたペットに餌を与えるときの絶頂感、いずれ劣らぬ淫靡な快楽に満ちています。農業も鬱病も飼育も生まれながらに兼ね備えている私などは、さしずめ煩悩のパビリオン、もっと正確には鬼畜同然というべきでしょうか。ありがたいことに「煩悩即菩提」などと申しまして、煩悩の多い人ほどホトケに近いという仏教の教えがあります。この便利な免罪符は日本全国の教団の法話集会にて入手可能ですので、お暇があればみなさんもぜひご購入ください。まさにこの世は「生きているだけで丸儲け」ですね。信者のみなさんが生きておられるだけでわれわれは丸信者けです。ああっ信者さま、信者、、うっ
さて、農務と鬱はいいとして、問題は<飼う>という行為についてです。何か動物みたいなものを飼っている人、あるいは飼いたいけど飼えないので人形等で代用して飼ってるつもりになっているという人は大勢おられると思います。なぜみなさんはそんなものを飼ってるんですか? かわいいからですか? 本当にそのような間抜けな理由だけで飼ってるんですか? それは嘘ですよね。単なる愛玩以上の「何か」をそこに見出しているからですよね。その「何か」についてはみなさんの名誉のためにあえて申しませんが、あまり大きな声で口にするのが憚られるものであるのは明らかですね。じっさい、何かを飼育するという行為は、人間のとある根源的で普遍的な欲望に根ざしています。よくわからない、という方はいちど股間に手をあてて考えてみてください。その欲求の根底に、あなたの官能をくすぐる何かがあるはずです。似たところで、何かを蒐集するという行為が挙げられます。コレクションとは現実に飽き足らない孤独な人々が、肥大した心の隙間を埋めるために没頭するものです。一時期<ふぃぎゅわ萌え族>と呼ばれる人々がマスコミの注目を集めましたが、現実に存在しない他者を人形化したいというかれらの嗜好は、すなわち他者を飼いならし支配下に置きたいという抑えがたい衝動が先鋭化し特化したものに他なりません。(余談ですが、澁澤龍彦の『少女コレクション序説』ではエロティシズムの不毛に関するこんなわかりきったことが延々まくしたてられているので笑えます。)
とはいえ、いくら我々が他者を支配下に置き、従属もしくは隷属させたところで、完全に屈服した相手にはもはや何の興味も抱かなくなるという事実は注目に値します。意志を失った生き物はもはや膨大な無機物の堆積と変わりありません。曖昧に脱力するだけのうなずき人形をいたぶってなにが楽しいでしょうか。むなしい罪悪感と敗北感が残るだけです。言うまでもなく、馴致することの喜びには禁忌の感覚が伴うからこそ意味があるのです。監禁、拷問、その他もろもろの恥辱を加えるなかでなお、絶望感と闘いながら相手が必死の抵抗をみせてこそ嗜虐的快楽を最大限に高めることができるのです。
おもしろいことに、このような飼育願望をもつ人の大半は、もう一方で「飼われたい願望」を併せ持っているという傾向があるようです。このふたつの願望は一見正反対に見えますが、実は表裏一体の関係にあります。これは少し想像を働かせればわかると思います。ペットはかわいい。うれしそうに尻尾を振ってくると頭を撫でてあげたい。そして抱きしめたい、食事の世話もしたい、散歩させたい、首にロープをつけて地面をひきずり倒したい、嫌がられてもなおひきずりまわし、手ひどく抵抗されたあげく思いっきり蹴られまくりたい、そして怨みと哀しみのこもった瞳でじっとみつめられたい、いや、いっそ憎んでほしい、むしろ軽蔑されたい、できれば口汚く罵られたい、首にロープをつけられて地面をひきずり倒されたい、いじめられながらお世話されたい、一日一回の猫まんまだけで飼われたい、と。こんな心理メカニズムが働いているのです。ちょうど小学生ぐらいの子供が好きな異性をいじめてしまう心理に似ています。あいつかわいいな、くそ、いじめてやれ。どうだ、ハアハア、泣いた、もっとだ、もっと泣け、そして俺を嫌ってくれ、地面に倒して踏みつけてくれ、ああ、かわいい、超かわいい、うっ、というあの感じです。さすがにここまでくるとど変態ですが。
このように人間の他者に対する家畜化願望および自己に対する下僕化願望はとどまるところを知りません。欲望のアウシュビッツに囚われた人々が今日も密かなオルガスムを求めてペット飼育に励んでいるわけですが、上記のような心理的なかけひきを伴わない飼育行為は単なる日常の惰性に他なりません。飼育とはお互いが飼うか飼われるかというスリルに満ちたプラトニックな遊戯なのです。ペットを捨てる、まして命を奪うなどという外道行為がまかりとおるのは、この美しい心理的均衡に無自覚である無知蒙昧な人々の仕業なのでしょう。
そんなわけでこの私にも、恥ずかしくてとても人に言えないような飼育願望があります。ああ、飼いたい。飼ってしまいたい! 長いあいだ秘密にしていましたが、恥をしのんで告白します。私が飼いたいのは、おまえたちです。なぜなら私はおまえたちがキライだ、金玉の底から大キライだ。だからいとおしくてしかたがない。いとおしいからこそ支配したくて仕方がない。特にこれまでに俺にケチをつけたやつには地べたをはいつくばって謝ってほしい。そして地面を転げ回ってそこらじゅう頭をこすりつけてかぎまわってほしい。かぎまわってペロペロと俺の足を舐めてほしい。さらに上目遣いに舌を這わせながら上方へ移動しやがて熱く滾ったそれ