頭腐
結婚三年目の彰子は、夫の癖のうちどうしても耐えられないことがあった。食事中にクチャクチャという音をたてることだ。上品な家庭に生まれ育った彰子にとって、それは胸がわるくなるほど不快な行為であった。
どうして私みたいに静かに食べられないのかしら――。
今までなんども注意しようと思ったが、喧嘩になるのを恐れて我慢していたのだ。が、倦怠期を迎えて彰子の神経は限界にたっしていた。
クチャクチャ、クチャクチャ、クチャクチャ・・・。
夫は遠慮なく飯をかきこみ、漬物を噛みちぎり、コロッケをむさぼっていた。
派手に咀嚼し、嚥下する夫の姿を冷ややかに眺めながら、彰子はなるべく穏やかな口調でこう諭した。
「あなた、もうすこし静かにお食事していただけません?」
新聞を読みながら飯をほおばっていた夫は眉をひそめた。そして「ああ」と言って新聞で顔を隠してしまった。
効果があったようだ。彰子は一気に溜飲が下がったような気がした。これであの音からも解放される――。
彰子は晴れ晴れした気分で、食事のあとかたづけにかかろうとした。
ところが、そう思ったのもつかの間、またしてもあの不快な音が始まったのである。
クチャクチャ、グチャグチャ、グチャグチャ・・・。
彰子の怒りが爆発した。わざとだ。わざとやってるんだわ!
新聞紙のかげに隠れている夫に向かって、彰子は金切り声をあげた。
「その音やめてって言ってるでしょ!」
ヒステリックに叫んだ彰子をみて、夫は新聞ごしに怪訝そうな目をむけた。
「なにを言ってるんだ。おれは今なにも食っていないぞ」
夫は脇に置かれた茶碗と箸を目で示しながら言った。「自分の音じゃないのか?」
まさか――と彰子は耳を澄ましてみた。今やグチャグチャという音が明瞭に聞こえていた。
幻覚などではなかった。鼓膜の奥のほうでグチャグチャという音がのたうっていた。
彰子は甲高いさけびごえを発した。
「やめてっ、やめてえっ!」
錯乱したように彰子は頭をふった。ちぎれるほどふった。
ふりまわした頭の、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔から、溶けだした脳髄がグチャグチャと音をたてて一斉にあふれでた。