まいにちスクスク〜郁子の憂鬱〜
「嗚呼、また餌の時間だ・・・」
ベビーフードの空き箱を虚ろに見やりながら、郁子は悩ましいため息をついた。
結婚5年目にして恵まれた子宝。待望の我が子の誕生は、冷えかけた夫婦の絆を取り戻し、明日を照らす希望の灯となってくれるはずだった。それがまさか、こんなことになろうとは・・・。
「天使ちゃん♥」
初めて保育器のなかの我が子に呼びかけたとき、振り返った赤ん坊の姿を見て郁子はぞっとした。どう見ても普通ではなかったのだ。
どんよりと濁った陰鬱な目。それがジッと郁子を真正面から睨み据えている。への字に結ばれた口の端は涎の流出を頑なに拒み、同時に周囲からのあらゆる好意をも拒絶しているかのようであった。
赤ん坊は泣きも笑いもしなかった。しかし、知能も身体も発育上はまったく問題ないという。未熟児として生まれたにもかかわらず、むしろ普通の子供の数倍の速度で成長しているとのことだった。唯一欠けているのは、子供らしい無邪気さと人間らしい情動であった。
赤ん坊の薄気味悪さは常軌を逸していた。生後一週間にして首の座った赤ん坊は、四六時中ムスッと大仏のように鎮座していた。そして座ったまま郁子の一挙一動をジロジロと観察した。食餌の世話をするときも、洗いものをしているときも、赤ん坊の執拗な視線が郁子に注がれた。無表情におしだまったまま郁子を淡々と凝視する赤ん坊のねちっこい視線は、まるで根性の腐った小姑のそれを思わせた。
おまけに赤ん坊は言うことをきかなかった。とりわけ、おむつの着用を明瞭に拒絶した。両足を思い切りつっぱって、なんとかはかせようとする郁子の努力にことごとく抗った。業を煮やした郁子が力づくでおむつをはかせると、赤ん坊はあからさまな侮蔑の視線を投げ、迷惑そうにみずからの手でおむつを外した。そうして、ところかまわず垂れ流された汚物を泣きながら掃除する郁子の姿を、赤ん坊はベビーサークルから冷ややかに見つめるのだった。
母乳を与えるときはまさに地獄だった。赤ん坊は郁子の乳房を含んだまま、エロ親爺のような血走った上目づかいで、ちゅうちゅうと厭らしい音をわざと立てて吸うのであった。床に叩きつけたくなる衝動を必死でこらえるとき、赤ん坊はそんな思惑を見透かしたように母親の乳首を強く噛んだ。
以前から帰宅拒否症気味だった夫は、ますます家に寄り付かなくなった。赤ん坊には幸太という名前があったが、夫は嫌悪をこめて彼を「赤ん坊」と呼んだ。郁子はふがいない夫を呪ったが、もはや責める気力すらなくしていた。
そそくさと逃げるように出勤する夫を送り出すと、郁子と赤ん坊の二人きりの時間がはてしなく続いた。耐え切れずトイレに隠れてヒス声を挙げる回数も増えてきた。だがそのヒス声もまた赤ん坊の鋭敏な耳が察知しているのだと思うと郁子は気がくるいそうだった。
郁子は追い詰められていた。育児ノイローゼなどという生易しいものではなかった。半気ちがいになりそうだった。
ふらふらと郁子がリビングに戻ったとき、そのおぞましい生き物は腹をだして寝ていた。への字に結ばれた唇から、豚の悲鳴のようなグロテスクな寝息が漏れていた。
郁子は無意識のうちに、丸々とよく太った赤ん坊の二重あごに手をかけようとした。
そのとき、思いがけず赤ん坊がぱっちりと目を開けた。
郁子は反射的に手をひっこめた。
するとまったく意外なことが起こった。
赤ん坊がニッコリ笑ったのである。あまつさえ、郁子にむかって手をのばし、甘えるように「うだー」と声をあげた。それはまるで天使のように愛らしいしぐさだった。
郁子の眠っていた母性が一気に覚醒した。
あの子が、あの子が心を開いた・・・
郁子はわれ知らず、赤ん坊に手をさしのべていた。
赤ん坊はこころもち首をかしげ、ほほえみながら、
手をさしのべた郁子のもとへのろのろとはいずり寄った。そしてかわいらしい尻を郁子に向けた。
「どうしたの、天使ちゃん?」
赤ん坊は無言で郁子の頭に足をからませ、郁子のこめかみを両足ではさんだ。白桃のような尻の亀裂の奥で、ピンク色の可愛らしいアステリスクがもの問いたげに震えたその瞬間、
ブリバッ
という破裂音とともに熱いほとばしりが郁子の顔面を射た。
どどめ色に染まった郁子の視界の端で、ミスト状の飛沫がキラキラとスパンコールのように輝きながら四方に舞い散るのが見えた。
我に返った郁子の前で、赤ん坊はキャッキャと大声をあげて喜んでいた。それはまるで、満を持して実行に移した計画がものの見事に奏功したことに対する勝ち鬨のようであった。
「それが・・・」下痢便にまみれた顔面を指でぬぐいながら郁子は叫んだ。「それがおまえの答えか!」
どういうわけか、そのとき郁子はへらへらと笑っていた。(続く)