お経はぼくの手をすりぬけて。
辞世の句をどうしようかと思い悩む今日この頃、このまま決めかねているうちに天寿をまっとうしそうな予感もするのだがみなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、人間やはりお骨になってからが勝負であり、常に死んでからのことを考えて行動するべきなのは言うまでもない。ただ、そのうえで個人の力ではいかんともしがたい問題がひとつある。名前である。親や他人から勝手につけられた名前によって個人の運命が決まってしまう可能性があるということだ。姓名判断とかそういう低次元な問題ではなく、名前のもつイメージが意識的・無意識的に人格形成などに影響を与えてしまう場合のことである。これは、主に立派な名前をつけすぎて名前負けするパターンと、変な名前をつけたためいじめられたりするパターンに分類される。ガサツでわきがもちの「静香」さんもいれば、「アウギュスト」など寝ぼけてつけられたとしか思えない気の毒な名前のひともいる。いずれにせよ、あまり順当とはいえない名前をつけられた場合、当事者の意志にかかわらず負のイメージが定着する危険性は高いと言える。当人が改名しようなんて思いはじめるころにはすでに手遅れで、名前と正反対もしくは名前どおりのイメージがかっちりできあがって取り返しがつかなくなっていたりする。また、一見ちゃんとした名前のようでも、肩書きなどによっては支障が出ることもあるので気をつけないといけない。たとえば「大助」君がどっかの大学の教授になった場合、「○×大助教授」などと書かれると教授なのか助教授なのかはっきりしない。さらに名前が「行」という字で終わっている場合、返信用封筒に「○×△行」と名前を書いておいても「行」を二重線で消されて「様」と添え書きされて返ってくる恐れがある。同様に名前が「展」という字で終わっている場合、もし将来こいつが個展を開くことになったとしたらタイトルは「○×△展展」になり、「足利尊氏氏」みたいになってしまうわけだが、それでもいいのか。どうでもいいか。しかしよく言われるように、最低限ジジイやババアになっても恥ずかしくない名前にだけはしておいた方がいい。さもないと訃報が発表されたときみんなにクスクス笑われたりヒソヒソ小声でささやかれたりする羽目になる。ただでさえ最近は難読どころかもはやダジャレですらない、こじつけもはなはだしい音だけに依存した当て字の名前が増えている。具体例を述べるのは差し控えるが、「まあさ」だの「せいら」だの「さあや」だの、はたまた「ぱめら」だの「ぱるる」だの「るるあ」だのといった国籍不明の珍名を、暴走族も顔負けの難字を駆使してつけられた子供はどうしたらいいのか。とりあえずグレるしかなかろう(笑)。親のエゴや欲目で変な名前をつけられるのもたまらないが、まして冗談半分でつけられるのはもっとたまらない。運子とか珍子とか萬子とか。たぶん死にたくなると思う。もっとも死んだところで変な名前からとった変な戒名がつけられるので、どっちにしろ浮かばれない(笑)。俺? 俺の本名は歩笑夢(ぽえむ)です。