ストーカー
「私は確かにろくでなしです。世間では何もできません。妻も幸せにできず、友だちもありません。ただ私にはここがある。他には何もない。ここだけです。ゾーンの中だけに、私の幸福も自由も尊厳も全部あるんです。私と同じように痛めつけられた人たちをここに連れてきて助けることもできます。希望を与えるんです」
「ストーカー(СТАЛКЕР)」(1979 露 アンドレイ・タルコフスキー監督)160分 再見
タルコフスキー作品といえば浮浪者のような人々が頭を抱えていたり廃墟をウロウロしているだけというイメージがあって、実際その通りなのだが、確かに水びたしの床に散乱したゴミや寝転がる浮浪者をとらえた映像美は比類ないものであるが、浮浪者が廃墟をウロウロする映画に果たしてどんな意味があるのかと問われると、ガラクタや水たまりといった無生物への執着そしてそれを艶かしく映しとるというタルコフスキー特有のフェチズム以上のものがあるのかどうかいささか心もとないものの、その映像のはざまに確かに浮かび上がる可憐な意志こそ、タルコフスキーがタルコフスキーである所以だと思うのである。この映画のテーマは《希望》である。希望を与える映画という意味ではない。希望とは何か、希望のありかたそのものを問いかけてくるのである。ゾーンとは一種の宗教的な罠である。信仰に内在する構造そのものの比喩であると同時に人間の本性を映し出す鏡でもある。従って直接に触れることは自らの死を意味する。人々はその周辺で立ち往生し、途方に暮れてためいきをつくしかない。ストーカー自身も希望がもつ本質的なパラドックスを知りつつ偽装している。直視しえないものを見たとき、芸術も科学も宗教も等しく無力になる。ゾーンをめぐる葛藤は三者三様に意味を失うのだ。
「今度ばかりは疲れた。苦しかったよ。あんな作家や学者ども。何がインテリだ!何も信じてない。奴らの体中の器官は萎縮しちまってるんだ。骨折り損だった」
「かわいそうな人たちなのよ。同情してあげなくちゃ」
「うつろな目だったろう。自分を売りこむことしか奴らは考えてないんだ。考えるのも金ずくだ。それで妙な使命感を持ってやがる。あんな浅知恵で何が信じられるもんか。誰も信じようとしない。あのふたりだけじゃない。誰を連れて行く?いちばん恐ろしいことは、誰にもあの"部屋"が必要でないことだ。俺の努力は無駄なんだ。もう誰も連れていかん」
そして他のタルコ作品同様この作品のラストも異様である。タルコの神秘化趣味の極致とも言える不可解さだが、足萎えの代償に念動力をもって生まれた娘は、絶望と表裏一体となった希望のようでもあり、呪われた宿命そのもののようでもある。
「ふとまなざしを上げ まわりを閃光のごとく 君が眺めやる時 その燃える魅惑の瞳を私はいつくしむ
だが一層まさるのは 情熱の口づけに目を伏せ そのまつ毛の間から 気むずかしげでほの暗い 欲望の火を見る時」