禁じられた遊び
「禁じられた遊び(JEUX INTERDITS)」(1951 仏 ルネ・クレマン監督/フランソワ・ボワイエ原作)87分 再見
以前とある事情で義務的に観たところ、そのあまりに暗澹たる世界観に感銘を受けた作品。動物の死骸を大事そうに抱える少女というのがどつぼなのですね。どのシーンにも無邪気さと裏腹の死の影が濃厚にへばりついていて美しい。水車小屋の中で執行される小動物の埋葬「ごっこ」が荘厳たりえるのは、そこに意味を伴わないからであろう。遊びにおいては、意味の受容ではなくしばしば形式への固執が重要となり、むしろ無価値なもの、無意味なものへの奉仕にこそ慰安が見出されると思う。ごっこ遊びであれガラクタの蒐集であれ、儀礼的行為に浄化作用があるのは、意味の放棄や価値のリセット効果が得られるためではなかろうか。ポーレットが小動物の死に対し、等価の犠牲として人間の死を要請するのはごく当然なのだ。実際この映画に登場する小動物は死体も含めてみなめちゃくちゃキュートである。と同時に私はここにある種エロティシズムへの憧憬を禁じえないのだが、死とエロスの親近性を改めて指摘するまでもなく、死のイメージと二重写しになったポーレットの短すぎるスカートと繰り返し提示されるパン○ラショットがさらにそれを裏付けているといえるだろう。天涯孤独のポーレットに運命はなおも追い討ちをかける。信仰という名の有意味の化け物は子供たちの遊戯を侵犯行為として排斥し、代償としての罰を要求する。築きあげた幼児的世界からいとも簡単に引き離され、すべてを失ったポーレット。それをとりまく群集。巨大な波に呑みこまれ消えていく小さな後ろ姿に重なる無表情な「Fin」マーク。ナルシソ・イエペスの哀切のメロディが煽るこのベタベタのラストが私はあまり好きではない。なぜならここでティッシュをどこぞに押し当ててヨガっている徳光○夫の姿が容易に想像されるからである。イタイケな子供の受難にカタルシスを覚えるというのは一種の倒錯した排泄行為であり、これが安いお涙頂戴に化けたり単なる戦争批判に読み替えられ正当化されているとしたら虫酸が走る。ここには「ポネット」のお手軽な救済もなければ「鬼畜」の理不尽な忍従もない。まして十字架を捨てるミシェルのような反逆行為に出るにはポーレットは余りにも無垢であり幼すぎる。残されたのはたとえようのない無力感と行き場のない悲しみのみ。その光景を前に我々はただ打ちのめされ、うなだれるしかないのではないか。