今日の童話
ママンの憂愁の影を聴きながら 1ねん1くみ まつざきしげる
坊や私のなかへ生まれておいで
今やおまえは私の手のひらで
妖しくナイフになろうとしている
「どうしたの、はやく食べなさい」
食卓をはさんで向かい合わせにいるとき、これがきまってママンの口ぐせだった。ぼくがママンの美しさに見とれて食事を忘れるからだ。ぼくがそういうと、いつもママンは微笑みながら、いけませんというように首を振った。ママンの首はねじってはずせるようになっていて、ママンはいつも目の前でやってみせてくれた。でもぼくにはそのしくみがどうしても理解できなかった。たぶんママンの頭は、この世界とは別の世界につながっているのだとぼくは思った。ママンの頭の中は空洞になっていて、そこでは無重力のような時間と空間が滞留しているのだ、とぼくは思った。だから胴体から自由に切り離すことができるのだと。ママンは首をはずすと、かならずぼくから見えないところにある台座に置いた。そうするとぼくはママンの美しさにみとれないで済むからだ。
ところが今日いつものようにママンが首をはずして置こうとしたとき、なぜかママンの首が大きく口を開いた。するとママンの首は傾いたまま動かなくなり、台座のうえの中空に傾いたまま静止したのだった。首をもったママンの胴体もその場に固まったままだった。ぼくはとっさに気づいた。ママンが欠伸をしたため、ママンの内部に滞留していた時間が逆流して、この世界の時間と入れ代わってしまったのだ。だからママンは動かなくなってしまったのだ。ぼくはいそいで台座にかけ寄って、ママンの首にさわった。止まっているママンの時間を動かせば、もとにもどるはずだと考えたのだ。だけど思いがけず変なことになった。突如、周囲が暗転したかと思うと、ママンの首がグラリとよろめいていた。台座も消えていた。ママンの首はそのまま虚空をおよぎ、闇のなかへちかちかとスパークしながら沈んでいった。そのとき頭上でグシャとにぶい音がし、天井の羽目板がスローモーションで引き裂けた。同時に黒っぽいものの影が視界いっぱいに広がった。白目をむいた血まみれの巨大なママンの顔が、食卓におおいかぶさり、うつろに笑っているのだった。笑いながら、ママンは猛烈にぼくを吸いこんでいた。ママンの時間にぼくを合流させようとしているのだな、とぼくはうつろに考えた。暗い洞穴のようなママンの口に吸いこまれる瞬間、ママンの口のなかにもう一人のママンが口を開いてこちらを見ているような気がした。これでママンとおまえは、ひとつになれるのよとそれは言っていた。
「どうしたの、はやく食べなさい」
ふいにママンの声が聞こえたので、ぼくはびっくりして顔をあげた。食卓をはさんでママンが座っていた。でも、ママンの顔は牛だった。正確にいうと、牛のように見えたのだ。ぼくはおそろしくなって立ちあがった。牛だ、とぼくは叫んだ。ママンは怒ったような顔をした。ママンは牛ではないのに、ぼくに牛だと言われたからだ。牛だ、ともう一度ぼくは叫んだ。ママンの顔が、とつぜん苦しそうに歪んだ。まるで窒息しているような顔だった。ママンはもうちっとも美しくなかった。そしてぼくは、ママンはもうとっくに死んでいるのだということを、はっきりと思いだした。