世界が終わっても気にすんな俺の店はつぶれている
かく言うわたくしもこの日記の管理人を装っているわけですが、実を申せばこの日記はわたくしが書いているのではありません。わたくしはあくまで管理人の代理であり、本当の管理人は既に死亡しております。どういうことかというと、わたくしは三歳の幼児の霊に祟られていて、この日記はそいつの命令に従ってアップしているのです。わたくしにとりついているのは19世紀初頭にフランスで死んだ頭のおかしい子供で、わたくしはそいつのいわばお筆先として機能しているに過ぎない。管理人の霊が降臨すると、わたくしは深いトランス状態に陥り(しかしわたくし自身の意識は残留しています)、おもむろにパンツを脱ぎます。そしてちんこまるだしの状態でノートパソコンの前に正座する。すると、ちんこが硬く長く伸張し、怖ろしいぐらいの高速でキーボードを叩きはじめる。霊がわたくしのちんこを使って勝手に日記を書いているというわけだ。なぜ両手を使わないのかはわからないが、少なくともわたくしが両手を使って打つよりよほど早いのは確かである。こうやってたまにわれに返ることもあるが、これはごく短い休憩時間みたいなものに過ぎない。わたくしの体はほぼ二十四時間やつの意のままに操られているのだ。そら、今夜もまたアイツが・・・!
諸君にとって人生とは《屁》のようなものだろうか。諸君が幽霊のようなものだとして、幽霊とはウンコ学で言うところの屁位相に属するものだから、諸君は《屁》そのものなのだろうか。《屁》そのもののような諸君の人生はまさに《屁》の同義語に他ならないのではなかろうか。・・・わたくしにはわからない。しかし仮に諸君の存在が《屁》のようなもの、あるいは《屁》以下であったとしても、わたくしはそれを胸いっぱい吸い込み、なおかつ全力でお守りしたいと思っている。わたくしの言わんとすることがわかってもらえるだろうか。たとえば電車のなかで女子高生の集団に囲繞され、お約束どおりちちとけつの波状攻撃にさらされるとき、わたくしは人生を感じる。しかしわたくしが本当に人生を感じるのは庶民どもが泣き、わめき、動揺するときである。混雑しきった車内で金魚のようにあえぐ群集。突如空気を切り裂くガキの意味不明な金切り声。そしてどこからともなく屁のような香りが辺りに漂いはじめ、大衆どもの安い幻想に終止符を打つ。その瞬間にこそわたくしは本当の《生》を感じるのだ!