映画とは戦闘的オナニズムである
おかげ様でわたくしもようやく人間的な心を取り戻しつつあり、最近は諸君の●ンカスみたいなブログを拝見する余裕まで出てきたのであります。この場を借りて謹んでお礼を申し上げたい。で、思うのだが、諸君らの異常性欲にも似た自己顕示の精神と自意識過剰の美学には心底感服いたすものの、同時にある種のぬぐい切れない残尿感というか、どうにも腑に落ちない気分に陥る場面が多いことに気づいたのである。というのも、例の映画好きと称する連中、つまり映画に関する死ぬほどどうでもいい言説を垂れ流したり誰も読まない長文をアップロードしてニヤニヤしている諸君のことだが、諸君の心情がわたくしにとっては甚だ不可解であり、ゆえに得体の知れないブキミさを覚える事実を告白せざるを得ない。
その違和感の代表例が「●●クンの演技がすごい(@@)」「●●の演技力不足が目に付いた」云々といった、俳優の演技に関する感想である。映画作品において俳優の演技など一番どうでもいいことのような気がするのだが、わたくしは頭がおかしいのだろうか。そもそも演技というものが何なのかわたくしには理解できない。一般的には虚構の容れ物のなかで適切に身体をコントロールする技術のことを言うのだろう。しかしながら彼らに要求される適切さとは、形式や内容によって常に変動するものであり、たとえばコントとタカラヅカでは要求される演技の質はまったく異なるはずである。それをあえて言葉で表現するならば、全体芸術における演出の一部として必然的に発生する無意識下の演技行為、いわば自然の発露としての「非演技」というべきものになりはしまいか。それをことさら特定の配役の技巧に注目し、あまつさえ演技力の一言でもって断ずるのはひどく短絡的で滑稽な行為に思えるのだ。作為無作為にかかわらず演出とは作品全体の関係性のなかで決定するものであり、登場人物は関係性に支配された舞台の上で動かされるコマに過ぎない。ひるがえって、舞台装置としての《自然》はそのつど異なった様相をわたくしどもに見せる。それらは予測不能で捉えがたいけれども、つねに最適なカオスをフィルムのうえに実現する。自然という名優の前では人間の役者など馬糞同然の取るに足らない存在に過ぎない。いっそのこと「今年度のア●デミー助演男優賞は『●●』の××のシーンを演じた木!」みたいにすれば勘違い俳優も少しはおとなしくなるかもしれない。まあせめて、テレビの前には常にわたくしどものような異常な視聴者が、舌打ちをしたり屁をこいたりちんこをいじりたおしたりしているという事実を忘れないでいてほしい。
さらに輪をかけて奇怪なのが、気に入った映画を「完璧」「非の打ち所がない」などと評して悦に入っている人たちである。絶賛したいという気持ちの表れなのだろうが、個人の主観に過ぎない表現を一般化しようとする必死さは不気味を通り越して痛々しい。というか上から見ているわりに批評の用語としては非常に安易であり、却って作品のイメージを損ねているのではないだろうか。そもそも完璧に構築された作品があったとして、それが本当に魅力的なのかどうかと問うてみたとき非常にあやしい。世の中には不完全ないし破綻の美学というものがある。完璧よりも珠に瑕、画竜点睛を欠くぐらいが興奮する、場合によってはわざわざ傷をつけたがるという人がいる。これはつまりその方が勃起できるからである。人間はなにかしら穴や裂け目をみつけると無意識にほじくったり挿れてみたくなるという習性があり、要するに瑕疵や欠落というツッコミどころに対して本能的に耐えきれず、ち●こをねじこみたくなる衝動に駆られる。諸君がブログ上で映画作品に解釈を投じて虚構の全体像をでっちあげて喜んでいるのも実は生物学的に正しい行動であり、リビドーを満たすため無意識のうちに公開オナニーに興じていたというわけだ。もちろん賢明な諸君はいずれその事実に気づくであろうし、恥ずかしくなってこっそりエントリーを削除したりもするだろう。どちらにせよたいへん賢明な選択だと思う。それで諸君のささやかな名誉は保たれるのだし、そもそも誰も読んでいないのだから。
以上です。もう皆さんに申し上げることは何ひとつないので、どうぞハトのようにスズメのようにどこへでも自由に飛んでいっていただきたい。それが今のわたくしのたった一つの願いである。