キャッチ22
俺の勘によると、何かを述べる際に「俺は○○ではないが」とか「ただし俺は○○ではない」(○○は差別用語)とあらかじめ予防線を張っているやつは、かなりの確率でその○○そのものであるか、もしくは○○になりつつある。こういう姑息な論法をとる動機というのは、本当は○○かもしれないという後ろめたい自覚を必死に否定しているか、無視をきめこんでいるかのどちらかだからである。そうでなければわざわざ機先を制する必要などないのであって、たとえ「あいつは○○だ」という疑惑をかけられても当人は堂々と退ければいいだけの話である。もちろんこんな都合のいい論法では誰も納得するはずがなく、却って「やっぱりあいつは○○だ」疑惑を助長する結果となる。語るに落ちる、というやつだ。「あやしい者じゃありません」というやつが一番あやしいし、「俺を信じろ」というやつは一番信用できない。当然の話である。これと同じように他人を○○呼ばわりすることによって、俺は○○じゃないぞという免罪符を手に入れた気になっている人がたまにいるが、高みに立とうとする当人の意図に反してこいつも当然○○であろうという印象を残すだけだ。他人に向けて放った批判の矢は必ず本人に跳ね返ってくる。アホ言うもんがアホじゃ、という論理はじつは理に叶っているのである。ところが一方で、本物の○○はどういう論法をとるかというと、これは二通り考えられる。まず、○○であることを積極的・消極的にカミングアウトし、開き直る。これはある程度勇気がいるが、いちど肩の荷を降ろしてしまえば後は楽である。またやり方によっては却って○○臭が薄れるので、必死に否定するよりよほど世間に認知されたりする。だからこれを逆手にとって「私は変人です」などと公言しては小利口に立ち回るエセ変人が出回ったりもするが、これは当然バレバレなので当人が思っているほど効果は上がっていない。もう一つは、まったく意に介さないというパターン。なにしろ当人にとってはあまりに自然なことだから、わざわざ口外する理由がない。本物のキチガイは自分のことをわざわざキチガイだと名乗りはしない。自意識を超越した悟りの境地に到達しているからである。本当の意味での確信犯ということになる。キング・オブ・○○である。もっとも、このレベルにまで達していれば、ほとんどの場合は見た目だけで○○とわかるらしい。と、ここまで考えると、おかしな結論が導きだされることに気づく。この伝でいけば、「○○です」と言う人間は当然○○であり、「○○じゃありません」という人間も○○であり、どっちとも言わない人間もまた○○である。ということは要するに、公言してもしなくても、人はみな○○であるということになるではないか。以上の論考により、すべての人間はバカでありハゲでありキチガイでありスノッブでありオタクでありネクラでありひきこもりであり変態でありムッツリスケベでありロリコンでありショタコンでありホモでありレズでありオカマでありオナベでありコジキでありナチスでありヤクザでありペテン師であり土人であると言える。じつにめでたい。ちなみに俺は服も学校もママに選んでもらったけど、マザコンじゃないよ。だってママがそう言ってたもの。