Grand-Guignol K.K.K

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SAYAKA

タルコフスキーがその監督作の重要なシーンでしばしば少女を登場させているという事実にお気づきだろうか。チェコスロヴァキアを代表する変態ヤン・シュワンクマイエルが少女を主役に据えた「アリス」「オテサーネク」でエロティークな隠喩を多用し自らの変態性を誇示したように、タルコフスキーもまた「ストーカー」における詩の朗読とともにサイコキ少女が机上の物体を落とす悩殺ショット、「ノスタルジア」の廃墟内で出会う少女が詩の朗読とともにさりげなく足を組む悩殺ショットの挿入により、半分寝かけている観客の脳髄に潜在的官能を喚起していると思われる。何が言いたいかと言うと、これらの細部のエロい身振りについつい目が行くのは私がスケベだからではなく、要するにタルコフスキーの静謐で神秘的な映像の裏側に隠された変態性欲が創作という形を借りて噴出していると考えられるのである。しかもこれは明るい日差しのもとで楽しげに戯れる少女たちの健康的なエロスではなく、ともすれば苦悩や救済といった深遠なテーマを付託された少女たちの陰鬱な無表情とともに描かれるのであり、たとえそれがどのような神聖な意思を表徴していようとも言うなれば「屋根裏部屋の花たち」(V・C・アンドリュース)「隣の家の少女」(ジャック・ケッチャム)の監禁・虐待に代表される抑圧された病的エロティシズムと相通じる性質のものだと言わざるを得ない。こんなことを言うと怒る人がいるかもしれないが、道徳や倫理という仮面のもと巧みに隠蔽されてはいるが少年少女愛好趣味というのは人間の根源的な欲望に関わる契機のひとつであって、そうとでも考えないとマスメディアがアイドルグループを礼賛し粗製濫造のジャリ映画はたまた芸術を隠れみのにした少年少女映画が大量の観客を獲得する理由の説明がつかないのである。で、感性に異常なところのある人は意識的無意識的に表現という形でおのれの嗜好を漏らしてしまうのではなかろうかと。ははあ、やっぱり怒りましたね。変態で異常者の犯罪者どもと芸術を一緒にするなと。確かに想像と犯罪の垣根をたやすく越えてしまうパラノイドの愚行は後を絶たない。でもこれは歴とした事実なのであって、いくら君がウンコ色の唇をわななかせて怒ってもどうしようもないのであり、俺にとってはSAYAKAの新曲と同じぐらいどうでもいいことなのである。ってSAYAKAの悪口を言うやつは誰だ。SAYAKAを悪く言うやつは許さないぞ。SAYAKAって誰だ。