鬼火
「鬼火(LE FEU FOLLET)」(1963 仏 ルイ・マル監督)
自殺念慮に憑かれた男の最後の二日間。陰鬱きわまる独白と痛々しい懊悩の記録が、軽やかに死を醸成するエリック・サティの旋律に乗って淡々と綴られる。「顔色が悪い」「死人のようだ」と行く先々で言われるアラン(モノクロなので顔色はよくわからないが)。身を案じてくれる他人がいて、あくせく働く必要もないアランの絶望など傍目には随分贅沢な悩みであるが、心情的にはダメ人間のやりきれない鬱屈そのものであろう。人生に積極的に関われないのは私どもダメ人間の常ですが(一緒にするなと場外の声)、独自の狂った殺人哲学を築く伊達邦彦のような陽性の人間もいれば、アランのように疎外感に苛まれ自滅するしかないタイプの人間もいる。苛立ちを煙草でまぎらわし、憂鬱をアルコールで流し込みながら、孤独のなかでごく自然に腐って死んでいく。という感じの青臭い文学趣味とペダンティズムに彩られた作品で、映画的にはぜんぜん面白くないし、冷徹すぎるのも考えものだと思うが、なんでマルちゃんこんな映画を撮ったのだろうと首をひねりながらも決して他人ごととは思えないのが恐ろしい。もはや取り返しのつかない腐ったおのれの半生を顧みるに、虚しさに耐えきれずもうダメだあと悲鳴をあげながらもなお内奥でくすぶるわが心の鬼火。これは何だろうといぶかりつつも、それをもみ消そうとは思わない。いや、もっとくすぶれとすら思う。そう、われこそは不幸の申し子、額に刻印を受けた呪われし宿命の子である。「金髪碧眼の明るく朗らかで、幸福な人々」であるよりも、「人生がさげすみの笑い声とともに拳を固めて真っ向から殴りつけたかのような」一生がお似合いだ。アイ・アム・トビアス・ミンデルニッケル。こうして私はマゾとして生きていく決心をしたのでした。★
僕は死ぬ。君らは僕を愛さなかったし、僕は君らを愛さなかったから。僕は死ぬ。僕らの関係は元へ戻らないからだ。僕は君らに消えることのない疵を残すだろう。