サンタ・サングレ/聖なる血
『私は映画であなた方を射止める。忘れられない映像で見る人を負傷させたいのだ。』―アレハンドロ・ホドロフスキー
「サンタ・サングレ/聖なる血(SANTA SANGRE)」(1989 伊 アレハンドロ・ホドロフスキー監督)
というわけで口直しに再見。じつはタルコやホドロ系のなんとかスキー監督作品は購入しても放置しがちなのでこの際まとめて観ているだけだったりする。さて、説明の必要もない傑作だと思うが、あらためて見るとベタと呼んでいいぐらいのお涙頂戴である。が、テーマとストーリーは類型であるがゆえに普遍的な説得力を有しており、しかもここではその描き方が鮮烈で美しい。悲哀と残酷といかがわしい映像美に彩られた、言語に尽くしがたいイメージの結晶である。中盤はだるいが、陰惨な物語における癒しの儀式としてのラストの変転がたまらない。口のきけない顔面白塗り少女の存在がポイント。因果の呪縛からフェニックスを解き放つ存在になるのだが、絶妙のタイミングで繰り出すあのパントマイムは鳥肌ものだ。すべてはこのラストに収斂され、凡百のホラー映画とは一線を画した深い余韻に満ちている。インタビューによるとこの作品、ホドロフスキーがむかし新聞社で漫画屋として働いていたとき、感じのいい同僚が告白した実話(かつて自分は20人の女性を殺して庭に埋めた連続殺人犯だったが、今は幸せな家庭を築いている云々)にインスパイアされたものだとか。事実だとするとメキシコはけっこうとんでもない国である。
(追記)ホドロフスキー作品に共通して現れるモチーフとして精神的・肉体的な修行と救済が挙げられる。そして苦行の果てに訪れた救済はむしろ日常への同化であり無への回帰に他ならない。それどころか、決して精神の高みに昇ることではなく、むしろ限りなく落下に等しいというある種のアンチテーゼが提示されるのだが、いわゆる通俗的な「解脱」の解釈への皮肉であり、哀れみに満ちた肯定でもある。精神世界への上昇(それは同時に滑落でもある)を時に悲惨(エル・トポ)や滑稽(ホーリー・マウンテン)に包んで描いたように、「サンタ・サングレ」では同様の構造を踏まえつつ、狂気の側から正気を照射する。いわば日常と非日常の往還をいささか感傷的に解りやすく描いただけで、根幹にある思想は共通している。しかしながら、その運動がひととおり収束し、世俗化した後の描写をホドロフスキーはあくまで放棄する。ストップモーションによるラストの一瞬は、凍りついたままフィルムのなかに永遠に封じ込められる。なぜなら運動そのものに魅了されていたに過ぎないのであって、還俗の手続きはひたすら退屈で無価値だからだ(ホドロフスキー自身、インタビューで「普通の人生には興味がない」と断言している)。「ホーリー・マウンテン」において幻滅の瞬間の一歩手前で物語を破壊し無化してみせたのは、この意味でまことに象徴的であると言えるだろう。フィルムから切り捨てられた日常は使用済みのティッシュペーパーに等しい。まるめて捨てられたティッシュは放物線を描きながらカメラフレームの外に消える。大量の乞食がそれを目で追い、拾おうと一目散に走り出す(笑)。