哥
「哥」(1972 日 実相寺昭雄監督)120分
「曼陀羅」が面白かったので実相寺観念三部作とやらを衝動買いした。三作目となる本作は、没落する旧家を舞台に、伝統的な価値体系の崩壊と旧弊に殉ずる青年の悲劇を描いたコメディ映画。伝統を破壊しつくそうとする岸田森・東野孝彦(東野英心)兄弟の俗悪ぶりと、形式を固守する篠田三郎の禁欲ぶりとの対比は、表向きの悲愴感とうらはらにコミカルな様相を呈し、とりわけ篠田三郎の鬼気迫るロボットの物まねは至芸の域に達している。徹底した無感情と無表情、四角四面の受け答え、穀物と味噌汁とお新香とはったい粉(麦焦がし)だけを動力源に、修行僧のごとき厳粛な面持ちで単純労働に淡々と従事、夜は懐中電灯を片手に火の気はないかと屋敷を隈なく調べてまわる。唯一の趣味といえば、近所の墓地から墓碑銘の拓本を採集し、自室にこもって半紙に模写することだけ。現世的な快楽に身をゆだねる二人の兄とは対照的に病的なまでの禁欲志向に囚われた青年は、《死》や《絶対》という観念的な議論になったとたん突然イキイキと語りだす(僧侶との対話のなかでは笑顔らしきものすら見せる)。青年のこの偏執狂的な性癖は、滅私奉公という個の否定と人間性の放棄を媒介とした観念そのものへの欲情とも言える。《家》への執着も裏を返せば禁欲の延長線上にあるオルガスムを保証する装置に他ならず、修行僧の苦悶の表情がオルガスムへの相似を示すのは不思議でもなんでもない。そうこうするうちに究極の命令が青年に下る。「飯を食うな」という至上命令を文字通りに遂行し、解除されても命令違反だとして受け入れない。「2001年宇宙の旅」のコンピューターHALを思わせる見事な壊れっぷり。大好きなはったい粉にも一切手をつけず、半死半生の態でなお家と形式の保存を訴える。伝統なんかよりはったい粉と心中すればいいのにと傍目には思うが、本人にとっては大きなお世話である。
「中味はなくなっても形さえあったら、いずれ必ず中味は、命は復活します。その形のために、森山家の自然、古い山が必要なんです。これを失うたら、我々は魂の拠りどころである、形を失うんです」
「魂なんかいらねえんだよ淳。日本はもう滅びたんだ。・・・世界そのもの、存在そのものがひとつの夢なんだ。この宇宙を構成している無機物のきまぐれのひとつなんだよ。おい下男、山林を売ったらな、少しはお前にも金をやる。その暁には、はったい粉をあびるほど食うてくれ」
「そこまで考えになっていて、あなたは、なぜ自殺しはらへん」
「それは、自殺もまた夢のひとつに過ぎんからさ」
終盤に展開するとってつけたようなこの議論は、既存の価値の崩壊が無秩序という思考停止を生むのと同様、規範(観念)への過剰な忠誠もまた滑稽なオナニズムに他ならないことを残酷なまでに指摘する。淳が言うところの魂が実体のない空虚な観念であるのは明らかで、図らずも彼ら自身の欺瞞を暴きだす結果となる。呪縛からの解放とそこへの回帰を目指す両者の相反するベクトルは激しくせめぎあい、いずれも不可避的に挫折していく。破滅への凱歌を聴きながら、あやしくのたうちまわる執念の戯画。観念の相克を映しとった流麗な映像に重なるビバルディの調べは、滅びゆく時代への痛ましくも皮肉な鎮魂歌である。★1/2