無常
「無常」(1970 日 実相寺昭雄監督)146分
実相寺&石堂コンビの根暗パワーが炸裂した怪作。高林陽一監督の「蔵の中」、神代辰巳監督の「地獄」など近親相姦を扱った邦画作品を過去に何本か観たが、これは輪をかけて陰惨、そしてエロい。石仏、石塔、古寺、城跡、旧家、息づまる食卓、家父長制、能面、バッハ。能面をつけてのじゃれあいが劣情へとシフトするあの長いシーン、ご先祖様の遺影が見下ろす座敷での嬌態、さして美しくもない女優がエロく見えるのは、枯淡の風景のなかにまぎれこんだねちっこい官能の美学ゆえである。意図的に歪められたモノクロームの構図や対象へ自在に密着しまた遠ざかる移動カメラが、狂おしい旋律を奏でるバイオリンとチェンバロと相俟って、失われた日本的風土の残骸、純日本式家屋や古都の路地裏をこの上なく淫靡な風景にみせてしまう。そして、あいかわらず観念的な議論がおもしろい。背徳のエロスとメロドラマを基調としながらも、単に支離滅裂な退廃を描くのではなく、実に論理的に正しく倒錯していくのである。要所に仕掛けられたシニックな論理装置、それをあえて大仰な棒読み調の芝居がかった演出で、虚無を凝視しすぎたアナーキーな快楽主義者に代弁させるのだが、仏教徒が夢想する涅槃のイメージが実に貧困で詭弁に満ちていることを巧みに喝破する。
「地獄絵が阿鼻地獄、無間地獄、ありとあらゆる種類の地獄を克明に描き分けてあるのに、極楽の絵は実に単調なんです。阿弥陀と蓮の葉と、それだけです。それに私に応えたのは、極楽の絵に迫力いうものがぜんぜん見られない。いや、迫力どころか、どう見ても白々しく嘘っぱちにしか見えないんです。地獄の責め苦を見てると確かにその苦しみが伝わってくる。しかし、ご来迎や極楽の絵を見ててもその気持ちのよさはまるで伝わってこない。・・・そしてはたと思いあたりました。こいつはアタリマエのことや。極楽の絵に快楽のあるわけはない。なぜなら、快楽いうのは欲を満たしたときに得られるもので、欲を満たすいうことはまさに悪に他ならないからです。極楽に快楽のあるわけはない。・・・極楽に快楽はありえない。そしたら他になにがあるのか。荻野さん、極楽には、一体何がありますのや?それは無です。極楽には無がある。無としての快楽ならある。しかし無は無で、つまり、極楽はない。私はそういう結論に達したんです。仏の教えいうもんは、無への招待に他ならない」
「それを涅槃というのだ。無ではなく、時間空間のない永遠の停止。それこそ快楽以外の何者でもないやろ」
「死んでも意識はありますか?涅槃の境地に意識はありますか?もし意識とは時間と空間に関する意識とすれば、それはない!もちろん快楽の意識もあるわけはない。・・・極楽がなければ地獄もない。あるのはこの現実だけやが、そのようにとらえた私の現実においては、掟の一切は成立しない。なぜなら掟とは、罪と罰の中間にあるのに、私の現実には罪も罰もないからです」
「そんな君の現実とは、無秩序以外の何者でもない。それで、どうやって人間は生きていける?」
「別に人間は生きる必要はない。我々は、人類は存続すべきであるという妄念にとらわれすぎている。しかしそんな妄念のある限り、掟はアメーバーのようにしぶとく生きていく。私はそんな掟は認めへん。仏の無に対抗するには、それしかない」
「君は狂っている」
「古代インドには、最高の行は息をしないことであるとして、みずから窒息死した行者の死体が、高山にゴロゴロしていたそうですね」
「私が仏像に惹かれるのは、すべての仏像に共通のあの不思議な笑いのためです。じつにあれは無そのものの表情や。見ていてぞくぞくするのは、あの仏の笑いだけや。あれは自分の教えがみな嘘であることを知っている顔です」
例によってギャグが冴え渡っていることが判るだろう。脚本の石堂淑朗さんはこういう哲学的な台詞を作らせたら天才的だと思う。その背後にある圧倒的なシニシズム、虚無的な世界観の構築において追随を許さない。二人の論者に通底する無常観からこれほど対照的な思想が派生するのは、両者の依拠する観念がいかに脆弱であるかを証明する結果ともなっている。仏像へのフェティッシュな傾倒やエロのさなかに死を幻視する田村亮は変態としかいいようがないが、じつにふてぶてしい変態である。曰く不可解、と書き遺して華厳の滝に身を投じた藤村操たんもこれぐらい強かだったらよかったのにね。それにしてもこの映画のラストはひどいな。聴くに堪えないヘタクソな読経もそうだが、あの最後の歌なんて正気とは思えないのだが。賽の河原の鬼のように、積み上げたイメージを破壊してしまうのもイヤガラセのうちだろうか。あと、マニアックな見どころとしては、佐々木功がかわいい。功たんがええ声で「おまえなんか死ね!」って、わしゃ萌え死にそうじゃ(笑)。★1/2