大いなる幻影
「大いなる幻影(Barren Illusion)」(1999 日 黒沢清監督)
黒沢流の曖昧さの美学が極限まで突き詰められた傑作。タルコフスキーやソクーロフが好きな人にはたまらんのではないだろうか。台詞と音楽を最小限に抑えた慎みぶかい映像。説明的な描写の省略。固定カメラでの静かなロングショットと長回しの多用。ギリギリ笑えないギャグ。非過剰という過剰によって暗示される何か。それがすべてである。いわゆる映画的感興とはほど遠いはずなのに、画面から目を離すことができない。解りにくさ、わけの解らなさが反転して辛うじて魅力となっている。ここまでとりとめのない映像でありながら飽きさせないのは、この監督にしかできない芸当ではないかと思えてくる。頻出する「消えて」という台詞。存在と非存在の境界で繰り返し半透明になる主人公の姿。コミュニケーションの不在。現象はすべて不確かで、不条理な振る舞いをする。しかし主人公たちは自己の無力さ、いたたまれなさをどうすることもできない。存在を確認しようとすること(日本が描かれていない地図に日本を描きこむ所作とか)は、みずからの不確かさを確認する作業に他ならない。傍観する幽霊のような存在の稀薄さがある。
「どうして誰も何もしないの?」
「ぼくは。やっぱり。どこにもいない」
訥々と語られる数少ない台詞は、恐ろしく研ぎ澄まされ、かつ恐怖に満ちている。やけにリアルなのである。それでいて、常にフィルター越しに覗いているような距離感がつきまとう。まさしく、主人公たちの状況がわれわれのそれと重なってくることに気づかざるを得ない。大事なのは、この映画がきわめて個人的な体験のようでありながら、同時に世界を描いているということだ。閉塞感と終末感がただよう世界。そのぼんやりとした遠景のなかで、静かに滅びてゆく自己と世界への陰鬱なヴィジョンが浮かび上がる。その先に開けるのは、そこに存在するしかないという限りなくネガティヴな肯定である。絶望的に肯定された世界。そこには安堵感と不安感が奇妙に同居している。滅びを約束された廃墟にも似た危うい心地良さ。「大いなる幻影」は意識の深層に訴えかけてくる映画である。むしろ侵蝕する映画と言ってもいい。物語ではなく心象風景として切り取られた映画。こういう感覚を押しつけがましくなく描ける清タソは信頼してもいいと思う。「回路」や本作に比べると、他の黒沢作品はできのわるい冗談に思えてくる。★★1/2