小間使の日記
「セレスティーヌか・・・私の好きな名だ。だが少し長い名前だ。長すぎる。よければマリーに変えよう。マリーは短くていい名だ。小間使いはみなマリーと呼んできた。マリーと呼んで構わないかね?」
「小間使の日記(LE JOURNAL D'UNE FEMME DE CHAMBRE)」(1963 仏・伊 ルイス・ブニュエル監督/オクターヴ・ミルボー原作)
見た人間が困惑するような映画ばかり撮って喜んでいるブニュエルの作品群のなかにあって、本作は原作ものゆえストーリーらしきものも用意されているが、そこで中心となるのはやはりブニュエル的エロティシズムの捕捉である。カメラ越しに被写体を窃視するブニュエロ爺さんのねばりつくような視線は紛れもなく変態のそれであって、セレスティーヌに言い寄る愚かな男たち、靴フェチのジジイも女好きのひげ親爺も粗暴な下男も隣家の退役軍人もブニュエルの分身であるに違いない。当時それなりにおばはんであったジャンヌ・モローのややキツめでコケティッシュな年増ぶりは、日本で言うと加賀まりこみたいな立ち位置だろうか。当初常連のメキシコ人女優で撮るつもりだったブニュエルが資本の関係でフランス人女優を選定するにあたり、ジャンヌ・モローのくるぶしの上の横揺れに感銘を受けて決めたという逸話が笑える。正直なところ私自身そういう感覚はよくわからないのだが、塀の上をのろのろ歩く猫のけつのふるえ方に抱く感慨に近いものかもしれない。ブニュエルは自作のなかに一貫してフェティッシュなシンボルをまぎれこませるが、とりわけクワの実で口の周りを汚しながらエスカルゴを採取する下働きの少女が惨殺されたことを暗示する短いカットは強烈な印象を残す。血で汚れた少女の片足にエスカルゴを這わせるという倒錯的な暗喩は、生理的嫌悪と等価のエロティシズムを否応なくかきたてる。ちなみにルチオ・フルチの「怒霊界エニグマ」のカタツムリ殺人はこの映画にオマージュを捧げたものだという話は聞いたことがないので、たぶんまったく関係ないだろう。★1/2