悪い男
「悪い男(BAD GUY)」(2001 韓 キム・ギドク監督)103分
気まぐれOne Way Boy 1ねん1くみ のむらよしお
美醜という両極的な価値は実のところ相互に変換可能であり、「美を汚し、汚れを美化する」という観念のマッチポンプをわれわれは無意識のうちに演じています。美しいからこそ汚したい、好きなアイツを自分と同じレベルにひきずりおろしたい、堕ちていくアイツを観察していたい、むしろおちぶれたアイツにこそ興奮する、汚れて泣きべそをかいているおまえが好きだ、というのは単なる倒錯ではなく、誰しもがもつ普遍的な心理ではないでしょうか。「殺しが静かにやって来る」を彷彿させる主人公の負の属性(ハンディキャップ)に託されたリアリティが、この屈折した心理の均衡をかろうじて支えています。冒頭で男は唐突に恋をします、しかしみずからを外道と認識する男にまっとうな愛情表現ができるはずもなく、男は沈黙と暴力、虐待と放置でもってすべてに応えるのです。いっぽう囚われの身となった女もまた、屈辱と絶望のなかで男を激しく憎みますが、やがて愛憎が交錯する複雑な感情に陥っていきます。本作はこのような逆説的な(あるいはメロドラマの法則に忠実に則った)手法で観客の貧相な想像力に訴え、相反する価値の葛藤を寓話ないしファンタジーの形に変換しスクリーンに定着させようという試みのように思えます。ドメスティックな暴力で愛情を表現する現代の風潮や心理学の特殊事例と思われているストックホルム症候群を例にあげるまでもなく、《言葉》によって分断された二元論的な価値は必ずしも対立するものではなく、最終的に合一可能であるという弁証法的な愛のあり方をわかりやすく説いてみせたのだとも言えます。そう、エゴン・シーレの画集から気に入ったページを破って失敬し、拾った財布からこっそり現金を抜き取るような女はとっつかまえて説教しなければいけません、そしておのれの内部に沈殿する穢れの意識に目覚めさせ、たとえ間違った方向であろうとも導いてやるべきなのです、その先を照らす一筋のうんこ色の光と汚辱のバラッドに抱かれながら。すなわちこの作品は、言葉によらない説教(調教)こそが究極の愛(アガペー)でありエロスであるというドグマチックな命題を証明してみせたのだと言えるでしょう。というわけで、暴力とお金の世界に生きる外道のみなさん、ならびに平和と貧困の世界に生きる庶民のみなさんにおかれましては、ぜひとも本作をご覧になって、このようないびつな形の愛も存在するのだということを知っていただければと思います。もっとも、愛などという高次元の概念がみなさんに理解できるとは思えませんので、やっぱり観ない方がいいかもしれませんね。★1/2