クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」(2001 日 原恵一監督/臼井儀人原作)
「この野郎!チャコ様のパンツ見やがって!何色だった!」
「白だよ!白!」
ノスタルジー=死に至る病 1ねん1くみ うえしまりゅうへい
20世紀へのノスタルジーにとりつかれた大人たちが一斉に幼児退行するというSFホラー的な設定で、個人的に非常に怖い映画であった。この世で最もタチの悪いもののひとつがオモイデという《病》である。別名アノコロ病といって、こじらせると死に至ることもある。過去を名残惜しむ、昔を懐かしむという行為は刻一刻ハゲゆく顱頂に往年の面影を求めるようなものである。懐古形式の映画の憂鬱さや「思い出づくり」という言葉の醜悪さはここに由来するが、かといってバカな人たちが主張するように強引に未来に目を向けたところで、そこには確実に朽ち果てる時間が待っているのみ。だから映画は時間に逆らう。時間の概念にとりつかれて気が狂わないよう、オトナたちは「くさいナイロン靴下」によって現在につなぎとめられ、しんちゃんは一心不乱にケツをふりつづける。これらは非常に《映画的》だと思う。映画とは時間への抵抗である。最近はあまり見ないがラストをストップモーションで締めくくれば時間はフィルムのなかで凍結され、永遠のなかへ葬り去られる。B級的なお約束の「じつは終わってなかった」「冒頭へ戻る」みたいな進行形の現在を演出する。そうして幻想ではない未完結の余韻を、はたまたサザエさんのように変化しない永遠に続く日常を、必死になって肯定しようとする。だから映画は怖い。デジカメに封じ込められた色あせないオモイデも、波平の頭に未練がましく残された一本の毛も、無根拠な希望に満ちたアカルイミライも、等しく恐怖そのものではないだろうか。妄執としての過去、腐敗の過程としての現在、緩慢な死としての未来、三方向に向かってわれわれの意識は常に滑り堕ちている。シロとひまわりの愛くるしさが本作で唯一ほっとする瞬間だ。★