お引越し
「お引越し」(1993 日 相米慎二監督)124分
「やめとけやお前ら、顔がブスになるぞ!ただでさえ見れたもんやないねんから!」
「忘れても悲しいことない?」「ない。忘れたほうがええんや。昔の思い出ちゅうんは、片手で数えられるぐらいで十分」
だまされた 1ねん1くみ カルロスとしき
チキショー!!「ミツバチのささやき」を引き合いに出していた人がいたので観てみたらぜんぜん別物、どちらかというと『じゃりン子チエ』に近いが何かが違う。というか何かが足りない。まず主演の田畑智子が致命的にかわいくない。曲がりなりにも思春期少女映画である以上、ましてヒロインが萌えないクソガキならばなおのこと、性的な隠喩の使用やスクール水着&ブルーマーの着用といった工夫が当然の義務として求められるところだが、にもかかわらず相米監督は、田畑智子にエロスを付与する努力を端から放棄しているように見える。およそ全編にわたって田畑智子に認められるのはアンチロリータの権化とも言うべきクソガキ性であり、唯一、謎のジジイの放水を浴びて浴衣姿で記憶や死について語らうシーンは奇妙なエロティシズムを放っていたものの、それ以外の場面で田畑智子にスクール水着もブルーマーも着用させない相米監督の良識をわたくしは疑います。もう一点、本作が秀作になりそこねた原因として、終盤に向けて幻想性を加速させるタイプの少女映画(例「霧の中の風景」「アンジェラ」)は、少女の心象風景を映し取りつつ、発話の抑制により幻想性を獲得するという共通の特徴、そして往々にして少女は彼岸への越境により妖精化を果たすという構造をもっているわけだが、本作において田畑智子は、あろうことか「おめでとございまーす」という意味不明な発話により一挙に幻想を瓦解させるという暴挙に及ぶ。これはとりもなおさず少女が通俗的な意味での成長、すなわちノコノコ舞い戻った現実のなかで肥え太りオバハンとなる道を選んだことを示しており、この瞬間に本作は思春期少女映画として決定的な終焉を迎える。しつこいようだが叫ぶならブルーマーを着用のうえで叫ぶべきであった。★