Grand-Guignol K.K.K

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Home, Sweet Homicide


「人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。」--萩原朔太郎

わたくしは映画全般があまり好きではないが、例外的にホラー映画にかけては人並み以上の愛着を抱いている。とりわけ家もの、家にまつわるホラー作品には不思議な興奮と懐かしさを覚えます。家のたたずまいがカッコよければ無条件で評価したくなるほどです。今日はそんなかっこいい家に関するホラー映画をいくつかご紹介したいと思います。

◎家ものホラーの系譜
家ものホラーはだいたい次の三つのカテゴリーに分類されると思います。

1.変質者の家
「サイコ」「恐怖の影」「恐怖のタランチュラ」「悪魔のいけにえ」「笑む窓のある家」「赤い斧」「サスペリア2」「フェノミナ」「壁の中に誰かがいる」など。舞台となるのはたいてい郊外の一軒家(廃屋)で、十中八九、家の中には死体が封じ込められています。彼らの家は外観や佇まいからして既に凶悪で、ただならぬ妖気を発散していることが多い。余談ですが、坂口安吾の小説に「気違いの家が火を吹いてゐる」という表現があって爆笑したことがありますが、きちがいの家とはかくも悲しくほほえましいものです。


2.幽霊かなんかが棲んでいる
「たたり」「回転」悪魔の棲む家」「ヘルハウス」「呪われたジェシカ」「家」「墓地裏の家」「バトル・ヘルハウス」「レジェンド・オブ・ヘルハウス/霊体接近」「アザーズ」など。いわゆる幽霊屋敷が代表格ですが、これらの家は幽霊や悪魔やゾンビなど様々な人外の魔物に支配されています。「ローズマリーの赤ちゃん」「センチネル」「サスペリア」「シャイニング」「ビヨンド」などの集合住宅(寄宿舎・アパート・ホテル)ものを含めると相当数に上ります。特徴のひとつとして、超常現象が発生することによって家自体が意志をもつかのようなふるまいをする点が挙げられます。ダン・カーティスの「家」はその極端な例で、脱皮したり人間を食べたりする家が登場しました。


3.夢と現実のはざま
具体例は少ないですが、「ペーパーハウス」や「ローズ・イン・タイドランド」はともにアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』に着想を得たとおぼしきゆがんだ家の構図がとてもかっこよかった。これらの家は現実感が希薄で存在するのかどうかすら疑わしく、ホラーというよりは幻想的な雰囲気の異世界が構築されています。また、ホラーではありませんが「去年マリエンバートで」なんかもこの部類で、現実と妄想の曖昧な境界に存在する家と言えるかもしれません。


◎家屋が崩壊する瞬間の美しさ
家屋が崩壊するシーンを観ると興奮します。ラストシーンで家がぶっつぶれるパターンが好きで、特に「キャリー」「ポルターガイスト」のような自動的に折りたたまれる最後がかっこいいと思います。ポオの『アッシャー家の崩壊』は家ものホラーの元祖で、その佇まいに崩壊の予兆をあらかじめ孕んでいます。そして家自体が一個の意志をもつかのように一瞬で瓦解し、あっけない終焉を迎えます。これらの家屋は廃墟と化す前の前廃墟性とでもいうべき性質を内包しており、それが何かのはずみで発動した結果、それ自体の内在的な廃墟が現出するといった印象を受けます。家ものホラーならではの魅力的なカタストロフと言えるでしょう。一方、最後に家が焼け落ちるパターンもありますが、これはどちらかというと喜劇的な色合いを帯びることが多いような気がします。ロジャー・コーマンのポオ・シリーズでは毎度同じセットが焼け落ちるという洒落た趣向が施されていましたが、なんとなくコントの終了を連想させました。またジャンルはやや異なりますが「オズの魔法使」でふっとぶドロシーの家や神代辰巳の「地獄」で崖を滑落する小屋のミニチュアなどがみずからの意志ではなく外部の意志によって空間を移動する様子はコミカルな印象を受けます。


◎暗闇の消滅ときちがいの不在
「怖くなければホラーではない」というトチ狂った発言をたまに見受けますが、ホラーの魅力=恐怖では断じてありません。ホンモノの「恐怖」がほしければNHKきょうの健康』でも観ればいいのであって、先のラインナップを見ても怖いどころか笑える作品がけっこうあります。言うまでもなく恐怖と笑いは表裏一体、密接不可分の両面宿儺です。
とっくにバレているかもしれませんが、わたくしは昨今のホラー映画にあまり魅力を感じておりません。背景として、ホラー作品全般に対する世間の風当たりの増加に伴いお行儀のよい無難な作品が蔓延したというのが一般的な分析ですが、より本質的なところで闇ときちがいの不在が影響しているとわたくしは考えます。かつて闇は光と音を吸収する底なしの暗黒であり、幽霊ときちがいが跋扈する非日常の世界でした。しかし郊外の開発や画一化の波が進み、電飾と喧騒にあふれたいささか情趣に乏しい光景が増殖した結果、オーソドックスなきちがいはすっかり影を潜めてしまいました。もはや深い闇は消滅し、人工光によって醸成された薄明るい不健全な闇が蠢くばかりです。さらに映像技術が進化し映像が洗練されるほどに映像自体の魅力が逓減するという皮肉な結果をもたらしています。
断言しますが、優れたホラー映画は人間の皮をかぶったきちがいでないと作れません。きちがいのフリをした凡人の作品群にはホラーに不可欠の悪意や狂気が欠けています。
ホンモノの狂人は今も闇に潜んでうつろなまなざしでニヤニヤと手持ちキャメラを回しているのではないでしょうか。