ちんこはいつも左向き
わたくしは映画館が嫌いである。嫌いというのは極論だが、感情として嘘ではない。映画館というのは単純に画面と音が馬鹿でかいだけだとわたくしは思うのだが、映画館支持派は「感動の共有」などというおかしな論理を持ち出す。深夜上映がなければ「ロッキー・ホラー・ショー」はあれほどの人気を博さなかったであろうと。だがわたくしは意見の共有はしても感動の共有はしたくない。感動はわたくし一人で独占したいのである。というと自己中心的だの協調性がないだの冷酷だのと半ば自動化されたヒステリックな批判が返ってきそうだが、真相は感動を共有できる仲間がいないからである。だから感動の共有などという感覚が理解できない。「ロッキー・ホラー・ショー」も嫌いだ。もっともこの議論には穴があって、要するに一人で観るのが向いている映画とそうでない映画、さらに一人で観たい映画とそうでない映画がありえるわけである。この観点からすれば、どんな状況で観るかによって両ベクトルの相乗効果は異なり、結果、感動の質は異なる。だから一概に映画館が最高とする論理は押し付けがましいペテンである。一人で観る映画と複数で観る映画を劃しているということは、つまり閉鎖的な個体としての自己と社会的生物としての自己とを意識的に使い分けているということになる。前者の代表格がわたくしの好きなお耽美映画であり、これは雑音だらけの他人がいたら邪魔以外の何者でもない。だからわたくしにとって映画とは徹底して閉じた個人的な体験である。よって映画館は嫌いだ。
もう一つ映画館が嫌いな理由として、他人と観れるような映画は無難でつまらないという経験則がある。「一般大多数」のために作られた映画と云うのは、仮に作品としてつまらなくなかったとしても、良くも悪くも平準化されてパンチがない。気持ち悪いのは世の中の評価が申し合わせたみたいに同じ方向を向いていることである。たとえば世間の映画評が口をそろえて「デビルマン」を最低映画と罵ったり、「悪魔のいけにえ」を持ち上げつつ「悪魔の沼」をこき下ろす、こういう感覚は信用できない。わたくしどもが良識の代表だと言わんばかりの得意顔だが、正常も偏向すれば立派な病だということは少し考えれば解るはずだ。「誰にでも愛されるものはろくでもない」(シラー)のである。既成の便利な言葉というのは意味を持たない脊髄反射的な表現である。宗教的な脳死ゾンビが教祖様のお言葉をリピートするのと同じことで、思考停止の釘で壁に留められた死んだ抽象に他ならない。もっともらしい出来合いの論説はすべて疑わしい。疑いを知らない連中の《無邪気(イノサント)》な盲信ほど不気味なものはない。わたくしのようなスケプチカルな天邪鬼には耐えがたい状況なのである。だから、可も不可もない平凡さよりも「デビルマン」の奇天烈な個性の方をわたくしは評価したい。語弊を恐れずに言えばわたくしは映画に強姦されたい。クソみたいなハッピーエンドもお涙頂戴もたくさんだ。身体も脳髄も拘束され、トラウマタイズされるほどのマゾイスティックな快楽に打ち震えたい。わたくしが映画に求めるのはこの神経症的で強姦的な側面であり、簡易ドラッグとしての効果です。それが映画というメディア特有の受動性を余さず堪能するということなのである。要するに《方向性》の問題なのだよ。わたくしのちんぼうのな・・・